騎馬隊
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騎馬隊(cavalry)(きばたい)とは、兵士が馬にまたがり刀剣や槍、銃などで武装した兵士たちを集めて戦闘団にしたもの。歩兵と比較して高い機動力、衝力を誇る。
中世当時、位の高い者達(侍・騎士)しかなれなかった。現在では、本来の役目ではなく式典の名物のひとつとなっていることが多い。
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[編集] 日本の騎馬隊
[編集] 歴史
日本の騎馬隊は古代日本の軍制が律令制に基づく軍団から国衙軍制へ転換して以降、軍事力の中心となった騎馬武者とその供(時代により従卒、武家奉公人と言われる)を基本単位として構成された部隊を指しており、足軽が戦闘要員として台頭するまでは基本的に公儀の戦闘は武士団=騎馬隊のみが行うものと認識されていた。
戦国時代以降、足軽が新たな戦闘力として認識されると、戦国大名の軍制は備を基本としたものへ変貌し、その中で騎馬隊は備の一隊として足軽隊の形成した前線の突破、又はそれらに対する逆襲が主な任務とされた。一備に配備される騎馬隊は二十~五十騎で編成されており、騎馬隊々士の知行は二百石から三百石程度である。彼ら侍の軍役は自弁が原則である為、引き連れてゆく供(武家奉公人)は自身の援護に付く若党(1騎に対し1~2人)を除けば、槍持や小荷駄といった後方要員がその殆どを占めていた。
また、騎馬隊といえば、武田信玄の騎馬隊が有名であるが、これは騎馬の扱いに長けた者や馬の産地が多い東国と文化の中心であった西国の境界に甲斐や信濃があった事によるイメージ的な要素や、かの地の馬が山岳機動に優れた能力を示したといった様々な説が唱えられている。
[編集] 戦術
騎馬武者の戦闘法は平安時代においては騎射が主流であったが、治承・寿永の乱の頃より馬ごと相手にぶつかり、組み打ち・落馬して首を取るという新たな戦闘スタイルが登場する。鎌倉時代まではそれでも流鏑馬に代表される様に騎射が主流であったが、鎌倉時代後期から室町時代になると悪党・野伏などの出現によりこの傾向は更に加速され、騎馬武者の戦闘は斬撃武器である長巻や薙刀を用いる様になる。甲冑も大鎧から腹巻へと変わり、鞍の深さも浅いものへとなった。戦国時代に突入すると、騎馬武者の使用武器は同時期に発案された槍が主流となり、軍役にも装備するべき武器として記載される様になる。もっとも、先述した様に侍は自弁である為、軍装に関してはかなりの自由裁量が認められており、弓・鉄砲又は槍の替わりに薙刀を武家奉公人に持たす事で様々な武器を扱った。
因みに日本刀は他の武器とは異なり、平安時代より一貫して自身が持つ武器であるが、これは身分を示すものとして佩用されるのが主な理由で、実用としては副武装の位置にある。
戦国時代の騎馬武者も当初は騎乗突撃をもって敵陣に突入していた様である(この時、若党は後続させていたが敵陣との距離は火縄銃の射程を考慮すれば100m以下であるので、追い付くのは容易であろう)。しかし足軽の増大と彼らが繰り出す対騎馬隊戦法(騎馬武者に対する長槍による槍衾、鉄砲隊による射撃は双方とも馬を狙う事が肝要とされている)により、先ず西国から、後には全国的に馬から降りて徒歩で突撃する様になった。しかしそれ以前、平安時代より騎馬武者は必要があれば下馬戦闘も行ってきたし、下馬戦闘が主流になった後も機会があれば騎乗突撃を行っている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館、2005年
- 藤本正行 『鎧をまとう人びと』 吉川弘文館、2000年