鹿鳴館
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鹿鳴館(ろくめいかん)は、明治初期に政府によって建てられた「外国人接待所」の名。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ。
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[編集] 経緯
計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。井上は不平等条約改正交渉のため、日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。
それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館か、あるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地)に決まり、1880年(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月、落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルである。施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織)が担当した(大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。
煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤードも設備されていた。
[編集] 鹿鳴館時代
1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴を行う。鹿鳴の名は詩経「鹿鳴の詩」から引用した。祝宴当日は井上馨の誕生日である。
鹿鳴館では外国からの賓客接待ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになった。夜会、舞踏会、婦人慈善会が世間の注目を集めた。
なお、有名な1887年(明治20年)4月20日、伊藤博文首相夫妻主催の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)は、鹿鳴館ではなく、首相官邸で行われたものである。「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた者もこの仮装舞踏会が開催されるや「亡国のきざし」と口を極めて罵った。勝海舟が憂国の感を深め、21か条の時弊を挙げて政府に建白している。井上の鹿鳴館外交への風当たりは厳しいものとなり、さらに条約改正案(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は同年9月に外務大臣を辞任した。
なお、井上辞任後も、1888年~90年、93年(明治21~23、26年)の天長節夜会は鹿鳴館で開催されている。
[編集] その後
1890年(明治23年)、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年(明治27年)の地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。
旧鹿鳴館の建物は、1927年(昭和2年)徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却されたあとも保存されていたが、1940年(昭和15年)に取壊された。山手線の車中から取壊しの様子を見ていたのが建築家の谷口吉郎で、後年、博物館明治村の建設に尽力する動機になったという。
[編集] 東京倶楽部
1884年、鹿鳴館に外国人との融和交際の為に会員制の「東京倶楽部」が設けられた。そこでは英語の使用に限られ日本語は勿論、他の外国語の使用は禁止された。
鹿鳴館の廃止により、鹿鳴館と同じコンドル設計の建物が建てられ、移転した。現在は霞ヶ関ビル隣に東京倶楽部ビルがある。