黒田ダム
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黒田ダム(くろだダム)は、愛知県豊田市稲武町(旧東加茂郡稲武町)、矢作川水系名倉川の支流・黒田川に建設されたダム。矢作水力が戦前に運用を開始した水力発電所用の貯水池を形成する重力式コンクリートダムを、戦後になって中部電力が揚水発電用上部ダムとして再開発した。ダム湖(人造湖)の名は黒田湖(くろだこ)という。
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[編集] 歴史
矢作川水系の電源開発を進めていた矢作水力は、黒田川をせき止め貯水池とし、水力発電に利用することを計画。1930年(昭和5年)に黒田貯水池建設事務所を開設した。1932年(昭和7年)1月に着工したダム建設工事は1933年(昭和8年)7月に完了し、黒田発電所は1934年(昭和9年)5月より運用を開始。出力は3,100キロワットであった。
戦後、黒田発電所を含め矢作川水系の水力発電所群は中部電力が受け継ぐことになった。中部電力は畑薙第一[1]・高根第一[2]・馬瀬川第一[3]に続く第4の揚水発電所を矢作川水系に建設することを計画。その上池として利用されることになった黒田ダムには、既設の堤体にコンクリートを打ち足して10.2メートルかさ上げし、貯水容量を2倍に増強されることになった。
中部電力は1976年(昭和51年)に奥矢作水力建設所を開設。同年11月より黒田ダムのかさ上げ工事に着手し、1978年(昭和53年)8月に完了。同年9月より湛水を開始した。発電設備や中間調整池である富永調整池(富永ダム)も完成し、1980年(昭和55年)9月、奥矢作第一発電所1号機および同第二発電所1号機が運用を開始した。1981年(昭和56年)2月には残り4台の水車発電機が運用を開始し、合計1,095,000キロワットを得る矢作川水系最大の水力発電所となった。
なお、黒田ダム再開発に伴い、黒田発電所は黒田ダムを貯水池として利用できなくなった。そのため黒田ダム下流に取水ダムを別途建設。出力を3,100キロワットに据え置き現在に至るまで運用を続けられている。
- 脚注
- ^ 畑薙第一水力発電所 - 静岡県・大井川に建設された中部電力最初の揚水発電所。畑薙第一ダム-畑薙第二ダム間で水を往来させ、13万7,000キロワットの電力を得る。1962年(昭和37年)9月運用開始。
- ^ 高根第一水力発電所 - 岐阜県・飛騨川に建設された中部電力第2の揚水発電所。高根第一ダム-高根第二ダム間で水を往来させ、34万キロワットの電力を得る。1969年(昭和44年)9月運用開始。
- ^ 馬瀬川第一水力発電所 - 岐阜県・馬瀬川に建設された中部電力第3の揚水発電所。岩屋ダム-馬瀬川第二ダム間で水を往来させ、28万8,000キロワットの電力を得る。1976年(昭和51年)6月運用開始。
[編集] 周辺
上池の黒田ダム、下池の矢作ダム、中間の富永ダムという3基のダムを使用する奥矢作第一・第二発電所であるが、もともとは富永ダムを介さずに黒田ダムと矢作ダムとの間で水を直接往来させる計画だった。しかし、当初予定していた導水路の経路上に伊勢神断層があることから、安全性を考慮し両ダム間に中間調整池である富永ダムを建設することになったのである。その結果、奥矢作第一・第二発電所は世界的にも珍しい2段式揚水発電所となった。
愛知県豊田市から国道153号・飯田街道を長野県方面に向かって進むと、小田木交差点に到着する。この交差点右手に見える建物が中部電力・奥矢作第一発電所であり、これを左折するとまもなく富永ダム、右折し山道を登ると黒田ダムに至る。
黒田ダムによって形成される黒田貯水池は黒田湖といい、湖畔には黒田湖の名が刻まれた石碑がある。その隣には戦前の矢作水力時代から続く黒田ダムの沿革を刻んだ小さな石碑があり、このほか奥矢作第一・第二発電所の諸元や案内板がある。
なお、奥矢作第一発電所構内には、かつてピーアール施設として奥矢作揚水発電館が存在した。図面や模型を用いて揚水発電の仕組みを詳細に解説していたが、2005年6月30日をもって閉館した。
[編集] 参考文献
- 中部電力電気事業史編纂委員会編集『中部地方電気事業史 下巻』1995年3月20日、中部電力株式会社発行。
- 社史編纂会議委員会編集『時の遺産 中部地方電氣事業史料目録集』2001年10月、中部電力株式会社発行。
- 中部電力株式会社「奥矢作第一・第二水力発電所諸元」(黒田湖畔の石碑)
- 「黒田ダム沿革」(黒田湖畔の石碑)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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