あのねのねのオールナイトニッポン
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あのねのねのオールナイトニッポンは、ニッポン放送制作の深夜放送、オールナイトニッポンで放送されていたラジオ番組。
目次 |
[編集] 放送期間・放送時間
- 1973年7月 - 1973年9月 水曜日 25:00 - 29:00
- 1973年10月 - 1974年6月 土曜日 25:00 - 29:00
- 1974年10月 - 1975年1月1日 水曜1部 25:00 - 27:00
- 1976年4月 - 同年9月 水曜1部 25:00 - 27:00
[編集] 概要
1973年6月までのオールナイトニッポンは月曜日から土曜日まで毎日25:00から27:00までの『ビバカメショー』(パーソナリティ:亀渕昭信)と、同じく月―土の毎日27:00から29:00までの『ビバケンショー』(パーソナリティ:池田憲一)が放送されていたが、同年7月にこれを一新、あのねのねはその中の水曜日担当パーソナリティとしてオールナイトニッポン入りした。
ちなみに当時の他の曜日のパーソナリティは、
月曜日:小林克也、火曜日:泉谷しげる、木曜日:斉藤安弘、金曜日:カルメン、土曜日:岸部シロー
というメンバーであった。(当時は2部制がまだ無く、全曜日25:00 - 29:00の4時間の放送。)
あのねのねの起用は、ディレクターでもあった亀渕昭信の推薦もあったためといわれる。
第1回目の放送でカフ(スタジオの音声を入れたり切ったりするレバー)を上げ忘れ、いきなり時報後の約5秒間音が出なかったというハプニングが起こったということがあったが、その後もお騒がせエピソードが多かった番組でもあった。
なお、1974年7月から同年9月まではあのねのねが全国コンサートツアーを行ったため、生放送が出来なくなるなどの理由で『番組は一時お休み』という形でオールナイトニッポンを離れた。そして当時水曜日に放送されていた『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』がその穴埋めという形で土曜日に移動して来たが、その後11年間番組が続くほどの大きな人気が出たことで10月以降も鶴光は土曜日に留まり、あのねのねは元の土曜日に戻ることが出来なかった(10月からは水曜1部へ)。
[編集] 主なエピソード・お騒がせ企画
[編集] 始発の山手線大パニック
1973年12月、あのねのねの二人が「始発の山手線に乗って朝の東京を見たい」という希望を放送で話し、更に「みんな絶対追いかけて来るなよ」ということを何度も呼びかけていた。この時にはいつどこから何時何分の電車に乗るとは一切言っていなかった。あのねのねとスタッフたちは新橋駅から山手線内回り(東京・上野方面)に乗車、しかし二人があれだけ呼びかけていたにも拘らず、各駅ごとに放送を聴いていたリスナーの大群が乗車し続け、更に二人を探そうと電車内を移動したりホームを走ったりする大騒ぎの状態がその後も続いた。電車が大塚駅に入ろうとした頃、車内はついに極限状態に達し、あちこちで窓ガラスが割れるなどのトラブルが起き始めたためこれ以上は危険と判断してあのねのねとスタッフたちは脱出、車掌はリスナーの大群が出られないようにあのねのねの脱出と同時にドアを閉めようとしたようだが閉められず、数百人の大群が一気にホーム上へ飛び出し、改札も無視して更に二人を追いかける状態となった。最後に二人を乗せて逃がしたのは、たまたまこの放送を聴いていたタクシーの運転手だった。
[編集] 時報クイズ
午前2時の時に、実際の時報の音を使ってこれを三回繰り返し、「さて本当の時報の音はどれでしょう」というクイズを出していた時があったが、放送法に抵触する恐れもあり、局の上層部から大目玉を食らうこととなってしまった。ちなみにこのクイズは『ガム島すてきなタビクイズ』と銘打たれて行われており、「グアム島の旅」かと思いきやプレゼントはガム10(ガムトオ)個とフクスケの足袋(タビ)だったというオチ。
[編集] 警視庁に自首電話
「夜中のこの時間に働いている人たちにあいさつしよう」と思い立ち、生放送中のある時に警視庁に電話をかけ、そこであのねのねの二人は「これからスケベなこと喋りますんで逮捕してください」というようなことを話していた。対応者は笑っていたという。
[編集] 5月5日の“たけ”くらべ
1974年5月5日の放送で、童謡『背くらべ』になぞらえた企画としてやったのが、男性リスナーに、勃たせたナニで障子の紙を破ってもらい、その音を電話口で聴かせるというもの。これに全国のPTAや当時オールナイトニッポンをネットしていた各局からも沢山の抗議が集まり、結局この企画は以後行われることは無かったという。
[編集] せんだみつおのセイ!ヤング生放送乱入
1976年に水曜1部に出演した当時裏番組だった『せんだみつおのセイ!ヤング』を乗っ取ってやろうと、乱入前の放送には録音放送を流し、乱入の決行時に生放送に変わって文化放送の前で待機していた清水國明の喋りに。結局せんだは乱入してきた清水にマイクを取られ、この計画は成功しニッポン放送、文化放送両局で同じ放送が流れることとなった。この他にもせんだに同じ曲をかけるように促しても、あのねのねの方では曲をかけず『引っ掛かったなー』などとやり取りする場面もあったという。ちなみに当時せんだはニッポン放送でも土曜日の夜に『足かけ二日大進撃!』という番組のレギュラーを持っていた。なお、この模様は音源の一部がオールナイトニッポン35周年記念アルバム『ON AIR オールナイトニッポン パーソナリティーズヒッツ』(ポニーキャニオン)のDisc3の9トラック目に収録されており、このCDで聴くことが出来る。
[編集] ロッキード社、FENへ生電話
同じく1976年の水曜1部時代、ロッキード事件で世の中の話題が持ちきりだった当時、小型飛行機を注文しようとロッキード社に国際電話。最初はあのねのねの二人がアメリカ人の担当者を相手に話していたが、途中から本番組の構成作家を務めていた景山民夫が英語で対応。まずパンフレットの送付を依頼、次にスイスの銀行に受け入れ口の口座を作ろうとするも、新聞にこれに対する抗議の投書が掲載されて結局中止になったという。
その後続いて、自分たちあのねのねの曲をかけてもらうようFEN(現・AFN)にリクエストの電話。結果、実際にあのねのねの曲がFENからフルコーラスで流れ、これは成功を収めた。
[編集] 関連項目
- オールナイトニッポンDX…担当は原田のみであるが、この番組の復刻版として半年間放送された。
オールナイトニッポン | ||
前担当: 亀渕昭信 (ビバカメショー・25:00 - 27:00) 池田憲一 (ビバケンショー・27:00 - 29:00) |
あのねのねのオールナイトニッポン 水曜 25:00 - 29:00 あのねのね |
次担当: 毛利久 |
オールナイトニッポン | ||
前担当: 岸部シロー |
あのねのねのオールナイトニッポン 土曜 25:00 - 29:00 あのねのね |
次担当: 笑福亭鶴光 |
オールナイトニッポン水曜1部 | ||
前担当: 湯浅明 |
あのねのねのオールナイトニッポン 水曜 25:00 - 27:00 あのねのね |
次担当: イルカ |
オールナイトニッポン水曜1部 | ||
前担当: 田畑達志 |
あのねのねのオールナイトニッポン 水曜 25:00 - 27:00 あのねのね |
次担当: タモリ |