おもちゃのまち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おもちゃのまち
- 栃木県に実在する地名。本稿で記述。
- ゲーム・アニメ『デジタルモンスター』シリーズの舞台であるファイル島にある架空の地名。ファイル島#ミスティツリーズエリアを参照。
おもちゃのまちは、栃木県下都賀郡壬生町内にある地名、地域名である。1960年代に玩具工場が相次いで誘致されたためこの名がつけられた。「玩具の町」「おもちゃの町」ではなく、すべて平仮名で表記する。
住居表示としてのおもちゃのまち(おもちゃのまち一丁目からおもちゃのまち五丁目)と、それを含んだ地域名と2つの意味があるが、ここでは後者の意味について扱うものとする。
目次 |
[編集] 地勢
地域としてのおもちゃのまちは関東平野の北部・壬生町の北東部一区域に相当する。東の下野市との境に姿川が流れる。宇都宮市や栃木市から程近く、栃木街道と栃木県道71号が南西部で交差し、交通の便がよいことから両市のベッドタウンとして発展している。
[編集] 歴史
[編集] 玩具工場の誘致
1950年代末、東京都墨田区には輸出用玩具工場が林立していたが、墨田区近辺では土地の価格が高いため、工場などの生産設備の拡大が困難であった。また、工場のあった位置が海抜の低いところであり、万一台風などによる自然災害に見舞われた際、被害が大きくなることが予想されていた。
そこで1960年、当時東京玩具組合長であった富山栄市郎(トミー創業者)は、工場などの設備を他の場所に移転するという計画を立てた。当初は千葉県流山市が移転候補として上がっており、一部用地取得も行われたが、土地価格高騰や地主の反対などが原因で、1961年、富山らは流山進出を断念した。そこで候補として持ち上がったのが、当時第二次世界大戦中に使われた飛行場の跡地しかなかった壬生町大字安塚(当時)一帯であった。
壬生町や沿線の土地を所有していた東武鉄道ではこの工場移設・建設を積極的に誘致し、1962年、組合は壬生町への輸出玩具工場団地誘致を正式に決定した。土地買収・宅地開発を進め、1965年、第一期工事が完了し、おもちゃ団地として11企業が操業を開始した。同年、従業員の便のため東武宇都宮線国谷駅~安塚駅間におもちゃのまち駅が新設された。すべて平仮名表記とされたのは、新団地および工場に相応しい夢のある駅になって欲しいという地元住民の思いから。1966年には第二期工事に合わせて建売住宅販売が始まり、急速な発展を始めることとなる。
[編集] 獨協医科大学の進出
1960年代末、日本国内での医師不足から、各地で医師教育のための医科大学を設立させようという動きがあり、埼玉県の学校法人獨協学園も新たに医科大学を設立することを決定した。
候補地として獨協学園のある草加市から程近い越谷市や春日部市も挙げられたが、最有力だったのが栃木県上都賀郡西方村(現:西方町)であった。しかし、地主との折り合いが付かず、獨協学園が目を付けたのが、おもちゃ団地に程近い壬生町大字北小林、すなわち現在獨協医科大学が所在する場所であった。
この一帯は当時多くが東武鉄道の所有だったことから土地が入手しやすいなど大学を建設に適していると判断され、1970年に正式決定、1973年に開学される。翌年には獨協医科大学病院も開設された。現在、獨協医大病院はおもちゃのまち住民のみならず周辺自治体の重要な医療拠点となっている。
[編集] 今日のおもちゃのまち
1977年、おもちゃのまち駅の名に因んで住居表示が実施され、おもちゃのまちは正式な地名となる。また、人口の増えたおもちゃ団地のために壬生町立睦小学校が新設され、地名としてのおもちゃのまちのみならず、同校の学区すべてが「おもちゃのまち」と呼称されるようになった。
壬生町旧市街地をしのぐ発展を続けたおもちゃ団地であったが、近年の例に漏れず、コスト軽減のため工場海外移転や輸出高減少などに見舞われ、存在していた工場は次第に撤退、もしくはプラスチック加工・部品製造など普通の工場に変化、さらには流通拠点のための倉庫が設置されるなど、当初の「おもちゃのまち」としての色は薄れてきており、前述の通り宇都宮・栃木両市のベッドタウンとなるなど性格が変化している。
1995年には、「おもちゃのまち」の歴史及び名にちなんだ壬生町おもちゃ博物館が建設され、周囲一帯が総合公園として整備された。ただし、壬生町おもちゃ博物館はいわゆる「おもちゃのまち」内ではなく、少し離れた壬生町国谷に位置する。
[編集] 交通
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- おもちゃ団地協同組合 - 旧東京玩具組合。トミー、エポック社などが参加する。
- 壬生町おもちゃ博物館
- 獨協医科大学病院