ウィチタ (重巡洋艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
|
艦歴 | |
---|---|
発注: | |
起工: | 1935年10月28日 |
進水: | 1937年11月16日 |
就役: | 1939年2月16日 |
退役: | 1947年2月3日 |
その後: | 1959年8月14日にユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社にスクラップとして売却 |
除籍: | 1959年3月1日 |
性能諸元 | |
排水量: | 10,000 トン |
全長: | 608 ft 4 in (185.4 m) |
全幅: | 61 ft 9 in (18.8 m) |
吃水: | 19 ft 10 in (mean) (6.0 m) |
機関: | ギアード・タービン、4軸、100,000 shp |
最大速: | 32.5ノット (60 km/h) |
航続距離: | |
兵員: | 士官、兵員929名 |
兵装: | 8インチ砲9門、5インチ砲8門、50口径機銃8門 |
航空機: | 水上機4機 |
モットー: |
ウィチタ(USS Wichita, CA-45)は、アメリカ海軍の重巡洋艦。艦名はカンザス州ウィチタに因む。同型艦はない。
目次 |
[編集] 艦歴
ウィチタは1935年10月28日にフィラデルフィア海軍造船所で起工し、1937年11月16日にウィリアム・F・ワイジスター夫人(連邦取引委員会議長W・A・アイレスの娘)によって命名、進水した。1939年2月16日に初代艦長タデウス・A・トムソン大佐の指揮下就役した。
艤装完了後、ウィチタはメキシコ湾へ向けて出航し、その後4月20日にテキサス州サンジャシントに到着、サンジャシント戦跡記念碑と戦争遺物博物館での献納、記念式典に参加した。10日後、ウィチタ市議会議長から銀製食器一式を受け取る。5月1日にヒューストンを出航、整調航海を行いヴァージン諸島、キューバ、バハマを訪れ、その後北に向かいフィラデルフィア海軍造船所で整調後の補修を行った。
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発したが、ウィチタは信頼性試験を継続していた。およそ一ヶ月後の9月25日、ウィチタは大西洋艦隊の第7巡洋艦隊に配属され、フィラデルフィアを出航しヴァージニア岬を経由、二日後ハンプトン・ローズに到着した。
ウィチタは10月4日にハンプトン・ローズを出航、ヴィンセンス(USS Vincennes, CA-44)に代わって哨戒任務に従事する。同任務を9日まで継続した後ハンプトン・ローズに戻り、12日にはノーフォーク海軍工廠に入り12月1日まで修理を行った。
3日後ウィチタはキューバに向けて出航し、8日にグアンタナモ湾に到着する。艦長のトムソン大佐は新たに構成されたカリブ海偵察隊の任務を命じた。同部隊はウィチタ、ヴィンセンスの巡洋艦に加えてボリー(USS Borie, DD-215)、ブルーム(USS Broome, DD-210)、ローレンス(USS Lawrence, DD-250)、キング(USS King, DD-242)、トラクスタン(USS Truxtun, DD-229)および偵察機部隊 VP-33、VP-51 から構成された。部隊はグアンタナモ湾およびプエルトリコのサンフアンを拠点として活動した。
部隊はグアンタナモ湾で一週間近く訓練を行い、クリスマスの4日前にウィチタはキューバ水域を出発、プエルトリコ経由で二日後サンフアンに到着する。その後ヴァージン諸島のセントトーマスを12月28、29日に訪れ、その後1940年1月2日までサンフアンに停泊する。
3日にグアンタナモ湾へ戻ると、8日から訓練を行いその後24日に新たに構成されたアンティル諸島分遣隊の旗艦としてキューバ水域を離れる。部隊は二日後に分離され、ウィチタは第82駆逐艦隊と共に1月26日から30日までウィレムスタッドを訪れる。その後ウィチタはヴィンセンス率いる部隊と再合流し、プエルトリコ水域へ戻る。
ウィチタはグアンタナモ湾からプエルトリコのクレブラ島にかけて訓練を行い、2月後半にハンプトン・ローズへ向かう。ウィチタは3月4日にノーフォークに到着し、同所で5日間停泊、その後フィラデルフィアに向かう。ノーフォークには3月末に帰還し、その後はハンプトン・ローズからの訓練を春まで行う。
[編集] 南アメリカで
6月にはいるとウィチタは南アメリカ水域でドイツのプロパガンダに対抗してアメリカの「良き隣人」たちへの「旗幟を鮮明にする」役割を担うことになる。1940年5月にドイツ軍がフランスへの電撃戦を行っている間、アメリカ合衆国のウルグアイ担当大臣エドウィン・C・ウィルソンはモンテビデオで広がるナチスのプロパガンダの様子を報告した。大統領と国務省は西半球に影響を広げるドイツに対して懸念するウィルソンの報告を重視した。
重巡洋艦クインシー(USS Quincy, CA-39)が6月20日にモンテビデオに派遣され、その10日後には第7巡洋艦隊司令A・C・ピケンズ海軍少将が座乗したウィチタがリオデジャネイロ経由でクインシーと合流した。
ウィチタとクインシーは「アメリカ軍の強さと行動範囲を知らしめる」ために7月3日まで巡航を続けた。両艦はリオ・グランデ・デ・ソル、サントス市、リオデジャネイロ、バイーア州、ペルナンブーコ州を訪れ、8月23日にモンテビデオに戻る。その後はアルゼンチンのブエノスアイレスと再びリオデジャネイロを訪れ、9月22日にハンプトン・ローズに帰還した。
ウィチタはノーフォークに一週間停泊した後ニューヨークに向かい、9月30日に到着する。続く三ヶ月にわたってウィチタは主にヴァージニア岬沖の南部訓練海域で海軍兵学校の予備役生の訓練及び砲術訓練を行った。
[編集] 戦後
ウィチタはその後間もなく日本占領部隊に加わる。中城湾を出航し9月10日に長崎に到着、翌日第55.7任務群へ配属される。長崎での停泊中にウィチタは日本軍により長期間拘束されていた戦時捕虜およそ10,000名を乗艦させ、本国に送還した。
ウィチタは25日に佐世保に到着し、4日間停泊した後29日に長崎に戻る。その後再び佐世保に向かい、停泊中の10月9日から11日の間に台風に遭遇する。ウィチタは台風による損害を被ることはなかった。
佐世保での間にウィチタは日本軍の無条件降伏に従い港湾施設及び船舶を検査した。その後11月5日に本国へ帰還する兵士の輸送命令を受ける。ウィチタは東京湾で燃料補給を行った後、サンフランシスコに向かい1945年11月24日に到着した。
2日後にメア・アイランド海軍造船所の乾ドック入りし、補修とマジック・カーペット作戦のための改修が行われた。12月1日に補修は完了し6日にハワイに向けて出航、12日に真珠湾に到着し、その後マリアナ諸島に向かう。サイパンで帰還兵を乗艦させると1946年1月12日にサンフランシスコに到着した。
サンフランシスコを1月27日に出航すると、2月5日から9日にかけてパナマ運河地帯を通過し14日にフィラデルフィアに到着する。その後第16艦隊に配属され、ウィチタは1946年7月15日に予備役となる。1947年2月3日にウィチタは退役し、フィラデルフィアで保管された。その後1959年3月1日に除籍され、同年の8月14日にユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社にスクラップとして売却された。
ウィチタは第二次世界大戦の戦功で13の従軍星章を与えられた。