ウサーマ・ビン=ラーディン
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ウサーマ・ビン=ラーディン(アラビア語:أسامة بن لادن)ことウサーマ・ビン=ムハンマド・ビン=アワド・ビン=ラーディン(أسامة بن محمد بن عوض بن لادن Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin)は、9/11テロをはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされるサウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。正確な生年は不明だが、1957年3月10日とする説がある。194cm。67kg。CIAの指名手配書によると肌はオリーブ色と表記されている。
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[編集] 表記
日本語ではオサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)などとも表記される。
なお、「ビン=ラーディン」は厳密には姓ではなく「ラーディンの子孫」という意味の添え名であるが、ウサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビン=ラーディンを添え名として名乗っており、また本人も「ビン=ラーディン」の名を用いているため、姓のある文化圏に留まらず、アラビア語圏も含め、便宜的に「家名」や彼を指し示す名前として扱われている(人名#イスラム圏の名前を参照)。
[編集] 概要
[編集] ラーディン一族
ラーディン一族は、イエメンのハドラマウト地方出身の名家で、サウジアラビアの建設業関係の財閥「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」を形成しており、一族の巨額な財産分与がテロ組織の資金源になっているとされる。グループは、1931年に創設され、石油ブーム時代に建築業で財を成し、メッカ及びメディナのモスクの修理を任されるほど、サウジ王室の高い信頼を得た。
現在、「サウジ・ビン=ラーディン・グループ」は、アメリカ、アジア及び欧州に多数の支部と子会社(60社以上)を有し、石油及び化学プロジェクト、遠距離通信及び衛星通信に従事している。グループは、50億ドル以上の資本を所有しており、その内、約3億ドルがウサーマの取り分だった。ウサーマは、スーダンの建設会社「アル・ヒジュラ」、イスラム銀行「アシュ・シャマリ」の支配株も保有している。これに加えて、投資財閥「タバ」を所有し、代理人を通して、ケニアに貿易会社、イエメンに器械製造会社、出版社、セラミック生産工場を監督している。
グループの特徴としては、多数のアメリカ人ビジネスマンが参加していることが挙げられ、アメリカのブッシュ大統領一家とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビン=ラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、ウサーマの兄のサーレムは現アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である。
[編集] ムジャーヒディーン
ウサーマは、ムハンマド・ビン=ラーディンの17子(4人の妻から全部で52子)としてサウジアラビアで生まれ育ち、キング・アブドルアズィーズ大学経済・管理学部を卒業後、暫くの間、クルアーンの規定の遵守を監督するシャリーア警察に勤務していた。
ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年-1989年)時、サウジアラビアは、アフガニスタンのムスリムの抵抗を積極的に支援することに決め、王室に近かったラーディン一家に支援を要請した。ウサーマは、駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表に任命され、アフガンゲリラ諸派とともにアフガン義勇兵としてソ連軍と闘った。サウジアラビア総合情報庁長官トゥルキ・アル=フェイサル皇太子の委任により、ウサーマは個人財産を生かしてアフガン義勇兵のスポンサーとなり、アブダラ・アッザムと共にアラブ諸国に「サービス局」(マクタブ・アル=ヒダマト)を開設し、エジプトなどから義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンへ送り込んだ。
[編集] 反米
彼らはアフガニスタンではアメリカ合衆国の後ろ盾を受けていたが、ソ連の敗退後、ウサーマはアフガニスタンで共に戦ったエジプトのイスラム急進主義派テロ組織ジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどの影響を受け、反米活動に転じた。サウジアラビアへ帰国したウサーマは湾岸戦争時にサウジアラビア王家が彼の献策を退けてアメリカ合衆国の軍隊を国内に駐留させたことに反発し、急速に反米活動に傾倒していった。このあたりは2001年10月7日に出された彼の声明の中でも「不信人者の軍はムハンマドの地を去れ」という文言で表されている。
アフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑にイスラム主義(原理主義)的な背景を持つ国際テロリズムのネットワークを作り上げたといわれているが、実際にはそうした存在はなく、世界各地で地元民を圧制、搾取する権力者に対抗するバラバラの勢力をひとまとめにして“ネットワークだ”と称しているにすぎないと主張する者もいる。1998年2月にはユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線を結成したとされる。他方FBIによると、彼が関わったとされるテロ事件はタンザニアのダル・エス・サラームおよびケニアのナイロビで1998年8月7日に起きた米大使館爆破事件などとなっている。
ブッシュ政権は、2001年9月11日の事件(アメリカ同時多発テロ事件)に際しウサーマ・ビン=ラーディンを首謀者と断定した。しかし、事件の直前にウサーマがCIAエージェントと接触していたことが報道されており、本当はアメリカの工作員なのではないかと疑う筋もある。2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道されている。最近になって、死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、それによると、腸チフスで死亡したとの事である。しかし、フランスのシラク大統領が、『死亡したとの情報はない』などとし、死亡説を否定した。今も尚、死亡説の正否は不明である。
[編集] 活動の年譜
- 1994年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、一時スーダンに身を寄せる。
- 1996年、アフガニスタンに逃げて、イスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアルカーイダの基地を作り、テロ訓練を行ったとみられる。
- 2001年秋、ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。ターリバーンにとってはウサーマは客人であり、彼が真犯人であるというなんらかの証拠提示もないまま米政権がつきつけた要求に応えることは、非常に困難だった。
- ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
- 2004年2月28日、イラン国営放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン=ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
- 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。しかし、このビデオの信憑性を疑う者も多くいる。
- 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もある為にドイツの新聞がビン=ラーディン死亡説を報道した。
- 2007年1月31日、米CNNはアラブ首長国連邦のドバイにて、ビンラディンの義理の兄弟がアフリカ南部のマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟が、UAEの衛星テレビ、アルアラビーヤに語った。
[編集] ウサーマ・ビン=ラーディンとアルカーイダ
- アメリカ政府はかねてからのFBIの情報収集活動などにより、早くからイスラム系国際テロ組織アルカーイダとそのリーダーであるウサーマが911テロ実行犯と断定していたが、ウサーマは当初事件への関与を否定していた。ところが2001年11月、アフガニスタンのジャララバットでタリバン掃討作戦を行っていたアメリカ兵が破壊された民家から一本のビデオテープを発見、その中でウサーマが同志にこの事件については事前に知っていたと語るシーンがあったことから大騒ぎになった。ウサーマ本人がビデオテープによりアルカーイダによる911テロの犯行声明を公に発表したのは、それから3年後の2004年11月のことである。
[編集] 疑問
- イギリスのBBC放送のドキュメンタリーは、「ウサーマ・ビン=ラーディンはアルカイーダのリーダーだ」といわれているが、「『アルカーイダ』は元々アフガニスタンからソビエト軍を追い出すためにアメリカの情報機関であるCIAが育てたグループであり、『アルカーイダ』という名称自体、ビン=ラーディンを逮捕したいFBIがでっち上げた名称だ」とした。(『“テロとの戦い”の真相(The Power of Nightmares)』、NHKの「BS世界のドキュメンタリー」でも放映された)
- ウサーマ・ビン=ラーディンの部下だと名乗る男の映像が2005年下旬に見つかっている。撮影場所ははっきりしていない。映像にでてきた男はイスラム教徒に「我々の石油がうばわれている。石油に関連する施設を攻撃せよ」などと述べている。
- 1990年代はじめにウサーマのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット博士の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビン=ラーディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAPという研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。
- こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる。テープ自体は頻繁に出されている。
[編集] エピソード
- ウサマと言う名は、アラビア圏の伝説的な詩人の名から付けられたもの。
- ウサーマの兄サーレム・ビンラーディンはアメリカ・テキサス州において小型飛行機事故で死亡している。この事故に関しては諸説ある。
- アメリカのタイメックス社の時計の愛用者である。奇しくもクリントン大統領も同社の時計を愛用していた。
- 2006年・インド東部の村を荒らしまくって、人喰い象と呼ばれていた象の名前がビン=ラーディンだった。
- 映像に写されている右手首の腕時計や、小銃の引き金を左手で引いていることから、イスラーム原理主義者らしからぬ左利きと思われる(イスラームでは左手は不浄の手とされている)。