エジプト第4王朝
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エジプト第4王朝(えじぷとだいよんおうちょう 紀元前2613年頃 - 紀元前2494年頃)は、エジプト古王国時代の古代エジプト王朝。古代エジプト文明を代表する建造物であるギザの大ピラミッドを建設した王朝であり、そのピラミッドを建設した王としてクフ王、カフラー王、メンカウラー王の名は広く知られている。政治史的にも文化史的にも極めて重要な王朝であり、その文化遺産は近現代にまで影響を及ぼし続けている。
目次 |
[編集] 歴史
マネト[1]は、エジプト第4王朝が「異なる家系に属する」8人のメンフィスの王によって統治されたと記録している。マネトによる記録は、古い時代については王統等が不正確な場合が多いが、第4王朝時代になると王名等においては明らかに同定可能なものも登場する。他にヘロドトス[2]やディオドロスもこの王朝の王に言及した記録を残している。
同時代史料や古代エジプトの文献史料から知られる第4王朝最初の王はスネフェルである。彼は上エジプト第16県[3]で生まれた。そのため、第16県は彼が王位についた後メナト・スネフェル(「スネフェルの乳母」の意)と呼ばれるようになった。スネフェルはエジプト第3王朝の最後の王フニと第1王妃の間の王女、ヘテプヘレス1世と結婚したことで血統的正統性を確保し、やがてフニ王の没後にエジプトの王位を獲得することに成功した。また彼自身もフニ王と王妃メルサンク1世の息子であったと考えられる。スネフェルはホルス名ネブマート(正義の主)を名乗りエジプト第4王朝が始まった。
スネフェル王は非常に強力な王であったらしい。スネフェルについての記録は多いとは言えないが、彼の即位については『カゲムニに対する教訓』と呼ばれる文学作品に記録が残されている[4]。治世中の活動としては、パレルモ石と呼ばれる後代の碑文によれば彼は治世第2年にヌビアに侵攻して勝利を収め、7000人の捕虜と20万頭の家畜を獲得したという。ヌビアへの侵攻はエジプト第1王朝、第2王朝時代にも記録があるが、恐らくスネフェル王によるヌビア侵攻は初めてヌビアの完全服従を達成した。シナイ半島方面への外征も記録されており、遊牧民を駆逐してシナイ半島の鉱山に対する支配を磐石のものとした。
一方で国制の整備も急速に進められ、体系的な行政組織が形作られた。スネフェルの王子ネフェルマートが宰相に就任した。この職は行政組織の最高位とされ、その下に国庫管理・建築労働を統括する諸部門がおかれた。上位官職は王族の独占とされ、王を頂点に一元管理される組織が形成されはじめたのである。スネフェルは第3王朝時代のピラミッド建造を引き継ぎ、大規模ピラミッドを複数建設している。彼の時代のピラミッドは、より整備された形状を目指した技術的な模索の跡が見て取れる。こうした努力はやがてスネフェルとヘテプヘレス1世の子、クフが王位を継いだ後にクフ王の大ピラミッドとなって結実することになる。こういった大規模建築を支えたのが、整備された行政組織とそれによって齎される領土からの歳入や、労働力の集約であった。
スネフェルの跡を継いだクフ王は、父と同じ上エジプト第16県で生まれた。クフ王は王位について後、父が進めた行政組織の整備と外征を引き継いだと考えられる。彼は父と同じくシナイ半島に出兵し、鉱山を「守護」したという。クフ王の時代の特筆すべき事業はギザにおけるピラミッド建設である。彼の立てたギザのピラミッドは高さ146メートル、一辺約230メートルという巨大建造物であり、建設には20000人から25000人の労働力が必要であったといわれている[5]。これはヘロドトスによる記録に比べ少ない[6]が、当時のエジプトの推定人口の1%以上であり、クフ王時代の第4王朝の国力を示して余りある記念碑である。
クフ王の没後に王位をついだのはクフ王の息子ジェドエフラー[7]であった。ジェドエフラーの治世は8年と短く記録も乏しいが、重要なことが分かっている。それは、ジェドエフラーが歴史上初めて自らを「太陽神ラーの子」としたことである。この姿勢は後のエジプト王に受け継がれていくことになる。ジェドエフラーの後、彼の異母兄弟にあたるカフラー[8]が王位を継いだ。カフラーもまた父と同じく巨大ピラミッドの建造によって名高い。彼のピラミッドはアスワン産の赤色花崗岩がふんだんに使われており、ナイル川の上流域まで安定した支配が及んでいたことが伺える。ヘロドトスはこのことに言及しカフラー(ケプノス)のピラミッドにはエチオピアの石が使われていると述べている。
カフラー王の後の王名は不明である。恐らくはマネトの記録にある統治年数不明のビケリス王にあたる人物の短い統治があったと推定される。その後カフラー王と王妃カメレルネブティ1世の子メンカウラーが王位を継いだ。メンカウラーもまたギザの大ピラミッドの建設者であるが、彼の建造したピラミッドは先の2基に比べてかなり小ぶりになっている。これを国力減退の証拠と見るかどうかは学者間で立場が必ずしも一定しないが、彼以後のピラミッドの規模が急激に縮小している点は重視される。ヘロドトスはメンカウラー(ミュケリノス)が、かつてエジプトに君臨した王の中で最もエジプト人に賞賛されているとして、空想的な寓話をいくつも記録している[9]。
メンカウラーの後の第4王朝の歴史は不明瞭である。少なくてもシェプセスカーフという王がいたことがわかっており、ジェドエフプタハという王もいたと推定される。しかし彼らの治世は極めて短く、間もなくエジプト第5王朝の時代に入る(紀元前2494年頃)。ヒクソス(エジプト第15王朝、第16王朝、第17王朝)時代に記されたと考えられるウェストカー・パピルスと呼ばれる文書に記された『魔法使いジェディの物語』には第4王朝と第5王朝の交代が次のように描かれている。
クフ王が気晴らしのために王子達に珍しい物語(奇蹟[10])を語るように命じた。王子達は様々な物語を披露したが、最後の王子は物語を語るのではなく魔法使いのジェディを連れてきてクフ王の前で奇蹟を演じさせた。クフ王はジェディに未来を問うと、ジェディはクフ王に予言を聞かせた。「あなたの王朝はあなたの息子カフラーと孫のメンカウラーの治世の間だけ存続することでしょう。そして太陽神ラーの子孫であり、下エジプトの太陽神の聖地に使えるラー神官の妻ルドデデドの子孫として生まれる新しい王家により王位を奪われることになるでしょう。」その後、ルドデデドはイシス神、ネフティス神、メスケネト神、ヘケト神、クヌム神の助けを得て三つ子を産んだ。三人の子にはイシス神によってウセルカフ、サフラー、カカイ・ネフェルイルカラーの名が与えられた。
その後の物語の末尾部分は失われているが恐らく予言通り第4王朝と第5王朝が交代したことが綴られていたと考えられている。この物語は到底史実として見ることは出来ないが、王朝の交代(つまり簒奪)を、神王たる王の権威を損ねないように説明しようとした第5王朝のプロパガンダを反映していると考えられている。ラーの子孫ということを強調したこの物語は、ヘリオポリスの太陽神祭儀とその神官職の重要性が増大した当時の社会情勢を写したものであると考えられる。第4王朝の王はラーの子を名乗り、ラー信仰に接近はしたが、クヌム[11]を初めとした他の神々をも重視し、ラー信仰とは一定の距離を置いていた。一方で次の第5王朝ではラーの子孫という点に王の正統性が強く求められており、王朝の交代劇にはラー神官達が強く関わったであろうと推定される。
[編集] ピラミッド
第4王朝は史上最大のピラミッド建築が行われた王朝である。ピラミッド建設は第3王朝時代のジェセル王の階段ピラミッド建設以来、第3王朝の歴代王が継続したが、それらはいずれも階段ピラミッド、またはその変形である。そして大規模なものの多くは未完成であったり、崩壊してしまっている。これは国力の問題でもあり、また技術的な問題でもあったと推定される。第4王朝最初の王スネフェルは第3王朝時代の建設政策を引き継いで大規模なピラミッドを建造した。しかし、その建築様式は第3王朝時代とは様変わりし、階段ピラミッド様式から真正ピラミッドへの移行が模索された。真正ピラミッドとは、旧来のピラミッドのように階段状の外観を持つのではなく、直線のラインを持った方錐形のピラミッドである。方錐形は太陽光線を具現化したものであると考えられており、王権と太陽神信仰との結びつきが強くなったこの時代に王は死後階段ではなく太陽光線を通って昇天するとされたことが反映している。方錐の斜面角は52度が理想とされた。この角度はヘリオポリスの聖なる石ベンベンに由来すると考えられている。
スネフェルによって建設されたピラミッドは3基ある。屈折ピラミッド、赤いピラミッド、崩れピラミッドの三つがそれである。これらのピラミッドはいずれもその形状が特異な物であり、理屈の上では理想とされたピラミッドを建設を目指した時の試行錯誤の跡が見て取れる。最初に建設された屈折ピラミッドは、高さ101メートル、一辺189メートルの規模を持ち、その名の通り途中で斜面の角度が変更されて「屈折」している。これは一般には、階段ピラミッドと同じ石積みの方法で方錐形のピラミッドを建設しようとしたが、工事途中でこのまま建設した場合に構造的にピラミッドが自重に耐えられなくなると判断されて設計変更を施されたものであると言われている。
次に建設された赤いピラミッドは、石積みの方法を従来の傾斜積みから水平積みと呼ばれる方法に変更して建造され、初めて直線のラインを持った方錐形のピラミッドとして完成した。しかし、斜面の角度は43度余りであり、理想とされた52度には遠く及ばなかった。そこで次のピラミッドは、既にある階段ピラミッドを埋めて建設するという方法が試された。第3王朝最後の王フニが残した階段ピラミッドの外側に石積みを追加して高さ92メートル、一辺144メートル、傾斜角約52度のピラミッドが建設された。しかしこの方法で作られたピラミッドは耐久性が乏しかったらしく、間もなく外装部分が崩落して崩れピラミッドとなった。
しかし一時的にでも求められた形状のピラミッドが完成したことは大きな遺産となり、崩れピラミッドの建設を通して得られた経験によって真正ピラミッドの建築方法がほぼ完成された。なお、スネフェル王が建造したピラミッドはいずれも試行錯誤の中で生まれた特殊な形状をしてはいるが、ピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)と呼ばれる付属施設を完備したものであり、建築方法の模索のためにだけ建設されたものではない。
やがてスネフェル王の跡を継いだクフ王の時代になって、完璧な真正ピラミッドであるクフ王の大ピラミッドが完成した[12]。これは今日でもピラミッド型の建造物の中では世界最大の規模を持ち、高さ146.5メートル、一辺約230メートル、傾斜角51.5度となっている。その後のカフラー王のピラミッドもクフ王のピラミッドとほぼ同じ規模を持って建設され、今日まで残っている。ギザの三大ピラミッドの最後の1つであるメンカウラー王のピラミッドは、前の二つに比較して半分以下の規模(容積は8分の1)しか持たない。
これは国力の衰退の証であるとも言われているが、その後の第5王朝の建設したピラミッドも極めて小規模であり、またクフ王のピラミッドと比較すれば粗雑な作りとなっている。単純な国力の衰退という意見とは別に、王権にとってのピラミッドの重要性が低下するような思想的変化があったため、ピラミッド建設に投入される労力が削られたものであるという意見もある。事実、クフ王の時代を頂点として、カフラー王の時代には既にピラミッド建築の衰退が確認されるのである[13]。
ピラミッド建築の詳細や変遷については、ピラミッドの項目、及び各ピラミッドの項目を参照
ヘロドトスはエジプト人自身の言として、ピラミッドが過酷な労役によって建設されたとし、その建設には常に10万人が携わったと記録している。しかし、ワークマンズビレッジと呼ばれる当時の労働者の遺跡等での発掘調査の結果、ピラミッドの建設には農閑期の公共事業としての側面があり、その労働者には休暇等社会保障も与えられていたことが明らかとなり、奴隷による過酷な労働の成果という認識は古いものとなりつつある。またピラミッドの奴隷的な労働という認識は、近代の学者による「自由なギリシア」と「隷属するアジア」という二項対立的な古代社会認識によって補強された面もある。
[編集] 歴代王
古代エジプトの王は、自らがホルス神の化身であることを示すホルス名や、上下エジプトの守護女神の化身であることを示すネブティ名(二女神名)を初めとして、複数の名前を用いていた[14]。しかし、エジプト第3王朝以後、カルトゥーシュ名[15]を重要視する傾向が高まり、第4王朝の時代に入るとカルトゥーシュ名がホルス名以上に重要視されるようになった。以下に示す歴代王の一覧は、まずカルトゥーシュ名を書き、括弧内にホルス名を記述する。
- スネフェル(ネブマート 前2613 – 前2589? 在位45年間説あり)
- クフ[16](メジュドゥ 前2589頃 – 前2566頃 ヘロドトスの記録ではケオプス)
- ジェドエフラー(ケベル 前2566頃 - 前2558頃 ラージェドエフとも記述される。)
- カフラー(ウセルイブ 前2558頃 – 前2532頃 ラーカエフとも表記される。ヘロドトスの記録ではケフレン)
- バカ[17]、またはバウエフラー?(? マネトの記録にあるビケリスか)
- メンカウラー(カイケト 前2532頃 – 前2503頃 ヘロドトスの記録ではミュケリノス)
- シェプセスカーフ(シェプセスイケト 前2503頃 – 前2498頃)
- ジェドエフプタハ(? 前2498頃 – 2494頃)
なお、マネトによる記録では以下のようになる。
- ソリス(恐らくスネフェル)
- スフィス1世(クフ?)
- スフィス2世(カフラー?)
- メンケレス(メンカウラー)
- ラトイセス
- ビケリス(バカ、或いはバウエフラー?)
- セベルケレス(恐らくシェプセスカーフ)
- タンフティス(ジェドエフプタハ?)
[編集] 注
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
- ^ 紀元前5世紀のギリシアの歴史家。
- ^ 上エジプト第16県の大まかな位置についてはこちらを参照。
- ^ カゲムニはスネフェル王の即位時に新しい職を任じられたとされる家臣。
- ^ この必要人員の数値は畑守泰子「ピラミッドと古王国の王権」『岩波講座世界歴史2』の記述によった。
- ^ ヘロドトスの『歴史』にはまず道路と地下室を建設するために常に10万人が3ヶ月交代で働き、苦役は10年に及んだ。ピラミッド自体の建設には更に20年を擁したとある。『歴史』第2巻を参照
- ^ 王名ラージェドエフと記す書籍もある。ここでは英語版を参考としてジェドエフラー表記を採用している。
- ^ ラーカフ、あるいはラーカエフと表記する古代文献もある。しかし一般に彼の名はカフラーと表記される。
- ^ ヘロドトスはメンカウラーの「善政」とは別に、大ピラミッドを建造したクフ王とカフラー王の治世はあわせて106年間であり、この時代をエジプト人は最も過酷な時代として記憶し、言語に絶する苦難に沈んだ時代であるとしていたという。更にエジプト人は憎しみのあまりクフ王やカフラー王の名前すら口にしなかったと記録している。『歴史』第2巻参照
- ^ 奇蹟という訳語は参考文献「ウェストカー・パピルスの物語」『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に由来する。この物語については『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に全文の和訳が掲載されている他、こちらのサイトで、「三人の王たちの誕生にまつわる物語」と言うタイトルで西村洋子氏による訳文が解説付きで公開されている。
- ^ クヌム神はスネフェルらの出身県である第16県で有力な神であった。
- ^ 建造者をクフ王とする点についてはこれに疑問を唱える説があり、一定の支持を得ている。
- ^ ピラミッドの用途や発達経過については現在も議論が続いている分野であるが、ここで述べたピラミッドの規模に関する数値、建設の経過等は基本的に『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』の記述に基づく。
- ^ 最終的に五種となる王名が完全に定着するのはかなり後の時代である。
- ^ カルトゥーシュと呼ばれる枠の中に表記される名前。第4王朝時代には即位名(ネスウト・ビティ名 上下エジプト王名)が記された。
- ^ より正確にはクフ王の名前はクヌム・クフウィ(「クヌム神は我を守る」の意)である。しかし同時代よりクフ、あるいはクフウィと略称で記録された。
- ^ http://www.ancient-egypt.org/index.html内、4th Dynastyのページ、Bakaraの項目を参照。
[編集] 参考文献
- ヘロドトス著、松平千秋訳 『歴史 上』 岩波書店、1971年
- 杉勇他「ウェストカー・パピルスの物語」『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』筑摩書房、1978年。
- ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳『考古学から見た古代オリエント史』岩波書店、1983年。
- 高橋正男『年表 古代オリエント史』時事通信社、1993年
- 大貫良夫他『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』中央公論新社、1998年。
- 前川和也他『岩波講座 世界歴史2』岩波書店、1998年。
- 三笠宮崇仁『文明のあけぼの 古代オリエントの世界』集英社、2002年
- 初期王権編纂委員会『古代王権の誕生3 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編』角川書店、2003年。
[編集] 外部リンク
- http://www.geocities.jp/kmt_yoko/index.html エジプト学に関する様々な情報が記載されている。古王国時代の歴史や第4王朝にまつわる物語の掲載もあり。
- http://www.ancient-egypt.org/index.html 古代エジプトの歴史を網羅。第4王朝の親族関係についての情報なども得られる。(英文)