エジプト初期王朝時代
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エジプト初期王朝時代(紀元前3100年頃 - 紀元前2686年頃)は、古代エジプト史学(エジプト学)における時代区分の1つである。エジプト第1王朝、並びにエジプト第2王朝の時代が初期王朝時代に区分される。
目次 |
[編集] 概観
エジプト第1王朝の王ナルメル(あるいはメネス[1])によって上下エジプトが統合された事から始まる初期王朝時代は、確認される限りにおいて上エジプトと下エジプトが始めて同一の政治権力によって統一され、統一王朝としての王権理念、政治体制等が確立されていく時代である。
エジプト原王朝時代の上エジプト王は、自らがホルス神の化身である事を表すホルス名を用いた。ホルス名を使用する伝統は初期王朝時代に入っても継続されたが、統一されたエジプトでの正当な王権を示すため、やがてホルス名に加えて第二の名、ネブティ名(二女神名)が王名に加えられた。これは王が上エジプトの守護女神ネクベトと、下エジプトの守護女神ウアジェト双方の化身であることを示す名前である。更に、第1王朝の第5代王デンの時代にはネスウト・ビティ名(上下エジプト王名)が加えられ、一体性を持つ政治世界としての「エジプト」が形成されて行くとともに、各王は神の化身という立場をとることで統治の正統性を確立することに努めた。
現実には初期王朝時代の初期の王は、上エジプトの首長の中で最有力の者であるに過ぎないものであり、現実に「神の化身」である「神王」の地位に相応しい政治権力を獲得することに腐心した。第1王朝時代に新たにメンフィスという都が建設されているが、その意図するところは、上下エジプトを統合する新しい拠点を築くことであると同時に、他の有力首長の影響力を弱めるためであったと考えられている。王名には一時期、ホルス名にかえてセト名が用いられた事もある。これは王権強化に反対する上エジプトの有力首長が、セト信仰を拠り所として王権と敵対したとも、下エジプトと上エジプトの社会対立によるものであるとも言われている。やがて王名にホルス名を用いることが定まり、古代エジプト歴代王朝の根幹を成す王権理念、官僚制、税制などが確立して行き、ピラミッド時代とも呼ばれるエジプト古王国時代を迎えることになる。
[編集] 初期王朝時代の遺跡
マネト[2]の記録によれば、エジプト第1、第2王朝の王達には「ティニスの」という形容詞がつけられている。おそらくこれはこの王達がティニスという名の都市にいて統治した、もしくはエジプト統一王朝の母体となった王朝がティニスにあったということを意味すると考えられる。
ティニスの正確な位置はわかっていないが、おそらく今日のギルガ(ナイル川西岸)付近であっただろうと推測されている。ギルガの南20kmあまりの地点にあるアビュドス遺跡で発見された初期王朝時代の遺物は、この地域の第1王朝、第2王朝との関係を立証するものである。
アビュドス遺跡にはケンティアメンティウ神[3]の神殿跡が確認されているが、これが最初に建てられたのは第1王朝時代であった。また、第2王朝時代に建てられた日干し煉瓦の砦跡も二ヶ所発見されている。これはこの砦跡から出土した封泥その他が第2王朝のペルイブセン王とカーセケムイ王の時代のものであることからわかる。これらの砦は長方形のプランで建てられており、外部には凹凸の装飾が用いられている。明らかにメソポタミアの建築様式の影響を受けたものである。
[編集] 墓地
アビュドス遺跡には原王朝時代に遡ると推定される大きな墓が十数基確認されており、その周囲には小規模な墓が数百も存在する。いくつかの墓は、シュメールで発見されたウル王墓で見られるような殉死の痕跡であるとする意見もある[4]。これらの墓の前に立っていた石碑から10人の王と1人の王妃の名が得られた。王名はほぼホルス名であり、このうちナルメルから始まる8人の王が第1王朝に属していると考えられる。唯一の王妃の名はメルネイトであり、おそらく第1王朝4代目ジェト王の妃である。
他方、メンフィスに近いサッカラでも初期王朝時代の墓地が広範囲から発見されており、これらの墓地の中には船を入れるための囲いがあるものも発見されている。これは恐らく死者が死後の世界を旅するための船であると推定される。この墓地から発見された碑文等からはアビュドス遺跡で発見された王名と一致する第1王朝時代の6人の王(アハ王~カア王)と2人の王妃(オルネイトとメルネイト)、及び親族または臣下と見られる多数の人名が読み取れる[5]。
[編集] ナルメル王の化粧板(ナルメル王のパレット)
初期王朝時代の図像史料の中でも最も有名なものは、上エジプトのヒエラコンポリス(エジプト語名ネケン、現在のコム・エル=アハマル)で発見されたナルメル王の化粧板である。化粧板とは古代エジプト人がアイシャドーをすり潰すのに使用した板であるが、ナルメル王の化粧板は長さが64cm、幅42cmもあることから、実用ではなく儀式用のものであると推定される。ホルス神の図像と考えられる隼の絵や、敵(アジア人[6])と戦うナルメル王の姿などが描かれており、この図像の解釈は古代エジプトの王権や歴史を考慮する上で極めて重要である。
[編集] パレルモ石
パレルモ石は黒色閃緑岩で作られた記念碑であり、断片がパレルモ博物館の他カイロとロンドンに保管されている。これは初期王朝時代より後の時代の遺物であるが、恐らく王の一覧が記載されている。座った人物像が並べて刻まれており、それぞれ王権の象徴である王勺を持ち、赤色王冠[7]をかぶっており、判読不能ながら王名と推測されうる文字が付記されている。赤色王冠をかぶっていることを重視すれば彼らは統一王朝以前の下エジプト王であり、もし欠けた部分に上エジプト王の一覧が載っていたのだとすれば、原王朝時代の上下エジプト王国の王名表が実在していた可能性が出てくる。
第1王朝の王名を記したと思われる部分は破損して残っていないが、第2王朝のニネチェル王と考えられる王が記載され、更にに第4王朝と第5王朝の王の一部も掲載されている。各王には統治年月を表す記号が記され、また年名には簡略ながら歴史的事件が記録されている。
[編集] 関連項目
[編集] 注
- ^ 第1王朝の初代王ナルメル、または次のアハ王を伝説的な最初の王メネスと同一視するのが有力説であるが論争もある。詳細はエジプト第1王朝を参照のこと。
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
- ^ アビュドスの古い地方神で死者の神。後にオシリス神の神格に取り込まれた。
- ^ 否定説が強い。仮に初期王朝時代、あるいは原王朝時代末期のエジプトで殉死の風習があったとしても、以後の古代エジプト史において殉死の証拠と言えるようなものはほとんど見つかっていない。
- ^ 第1王朝時代のアビュドスの墓地とサッカラの墓地の位置づけに関しては二つの説が出されていて意見の一致を見ていない。それは1.第1王朝の王墓はアビュドスのみに存在したとする説。2.第1王朝のアビュドスの墓地は遺体を納めない空の墓地であり、サッカラに王の遺体を納めた真の墓地があったとする説。である。
- ^ パレスチナ地方の住民
- ^ 下エジプト王の王冠