エジプト第1中間期
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エジプト第1中間期(紀元前2180年頃 - 紀元前2040年頃)は、古代エジプト史における時代区分。通常第6王朝の崩壊から第11王朝による再統一までの時代を指す。長期間にわたって安定した統治を続けていた古王国の崩壊とその後の戦乱によって社会的、思想的、政治的に大きな変化を齎した。
目次 |
[編集] 概観
メンフィスを中心としたエジプト古王国の統一権力は第6王朝の王ペピ2世の治世末期に急速に弱体化し、各地の州(ノモス[1])を統治した州侯達の自立傾向が高まった。メンフィスの政権は第7、第8王朝の下でなお存続し、統一政権の王としての権威も一応は保たれたが、地方の強大化の傾向は更に続いた。メンフィス政権の歴代王名やその治績についてはっきり分かっている事は極めて少ない。若干の学者は第6王朝以前の王朝と第7、第8王朝の連続性を重視し、この両王朝を古王国に分類している。これらの王朝の崩壊とともにメンフィスの政権の命運は尽きた。
やがて上エジプト第20県[2]のヘラクレオポリス(古代エジプト語:ネンネス[3])に興った第9、第10王朝と、上エジプト第8県のテーベ(古代エジプト語:ネウト[4]、現在のルクソール)を拠点とした第11王朝の南北対立の情勢となった。ヘラクレオポリスとテーベの政権による戦いは1世紀余りにわたって続き、一進一退を続けたが、僅かな記録からヘラクレオポリスの第9、第10王朝はテーベの第11王朝に比較して政権がやや不安定であったことが伺われる。両政権は対立を続けながら周辺地帯への統治力回復にも力を注ぎ、ヘラクレオポリスの政権は第10王朝のケティ3世の時最盛期を迎え下エジプト(ナイル川デルタ地帯)に侵入していたアジア人と戦ってこれを服属させた。一方テーベの政権は南のヌビア地方に進出していた。
やがて第11王朝にメンチュヘテプ2世が立つと、第11王朝の軍勢は第10王朝の首都ヘラクレオポリスを陥落させ、再びエジプトを統一した。これ以降を中王国時代と呼ぶ。これによってエジプトの政治的中心はメンフィスから新たにテーベへと移ったのである。
[編集] 社会革命
数百年以上にわたって続いた古王国の安定が失われたこと、そしてその後に訪れた政治混乱はエジプトの社会、そしてエジプト人の思想に重大な影響を与えた。古王国時代の王朝の交代等が主として政府内部の事件であったのと異なり、第6王朝末期以降の混乱は広範な人々を巻き込む戦いを引き起こした。自立的な勢力を持った上エジプト各地の州侯達はそれでも、自分の領内を安定させるべく努力を払ったが、そうした勢力の弱かった下エジプトや、首都メンフィスの周辺には無秩序状態が到来した。旧来の権力者の没落や、成り上がりもしばしば起こった。こうした状況は「社会革命」とも呼ばれており、エジプト人の社会、思想に重大な変化を齎した。
当時の雰囲気を伝える文書として『イプエルの訓戒』[5]と呼ばれる文学作品が知られている。旧秩序の崩壊と社会の混乱を指摘し、現状の変革などを主張するこの文書には、同一の導入句を反復する形式に沿ってエジプトの混乱が描写されている。それによれば門番や職人や洗濯屋が自らの仕事をせず掠奪に出かけており、海上の支配権はクレタ人に奪われ、下エジプトには蛮族が侵入して「エジプト人となった」[6]。掠奪者は至るところに現れ、ナイルが氾濫しても土地を耕すものも無く、貴族たちは嘆き、貧乏人は喜びに満ちた。富も失われ、死者をミイラとするための材料も無く、上エジプトは内戦のために租税を納めなくなった。老人も若者も「死んでしまいたい」と言い、幼児は「産んでくれなければよかったのに」といい自殺者があふれた。呪文は民衆に知れ渡ったために効力を失い、王は民衆によって廃され、貴婦人は筏の上に住み貴族達は強制労働に従事していたという。
貧乏人による掠奪、貴族の没落、納税の停滞などを嘆くこの文書は、古い有力者の立場を代弁したものであると考えられるが、当時のエジプトを襲っていた厭世的な雰囲気をまざまざと知ることができる。また解釈を巡って議論のある文書ではあるが、『生活に疲れた者と魂との対話』と呼ばれる文書でも「善はいたるところで退けられ、地を歩む悪は止まるところがない。」と語られている。
こうした混乱や社会秩序の喪失の中で、人々のそれまで信じていたものが失われ、それに変わる新たな価値観が模索された。
[編集] 社会正義
第1中間期初頭の混乱は国家との結びつきの強い官吏や神官にも強い衝撃を与えた。彼らは文字を操ることのできる知識階級でもあり、創造神によって定められた宇宙の秩序(マート)の体現者たる王に仕えてマートの維持に貢献するならば、現世における成功が与えられるという理念を古くより持っていた。それは彼らの持つ社会的地位に対する正当性を付加する発想であった。しかし第1中間期に入り、もはや旧来のような安定した地位の維持や俸給、供物の確保が不可能となり、また彼らが信奉した所の倫理、道徳的価値観も失われていく中で、彼らの価値観も変容を迫られた。彼らは古い価値観を捨て、或いは攻撃し、新たな思想を追求した。上述の『イプエルの訓戒』においても、「どうして彼は人間をこしらえようとするのか」とし、人間の本性に神々が気づかなかったことを批判する。更に「権威も悟性も正義もそなたとともにある、しかしそなたが国中にもたらしたのは混乱であり騒乱の叫びなのだ。」と記述され、批判の矛先は王やその上にいる神々[7]にさえ向けられることもあった。
しかし、それでもこのような神々への批判は例外的なものであり、なお神々に対する崇拝は思想の根幹でありつづけ、神は正義の規定者であり続けた。神を正義とする前提のもと、秩序を維持する責任は人間にあるとして、神の定めた正義の下に秩序を確立する最高責任者としての王の役割を強調されるようになっていった。それを反映して従来神の化身であるとされた王のための「教訓」を述べる文学も成立した。第10王朝の王メリカラーに対する『メリカラー王への教訓』[8]がそれである。
更に王はマートを維持する義務を負うが、王によって統治される人々の側にもマートの実現を要求する権利があり、むしろ自ら進んで要求しなければならないという主張も成立した。不当に財産を奪われた農夫が雄弁を振るってそれを取り返す『雄弁な農夫の物語』はまさにこうした考えを全面に出した作品である。
[編集] 葬祭の「民主化」とオシリス信仰
古王国時代において永遠の来世の観念は既に成立していたが、そのための手続きは王によって保証された。王は臣下の来世を保障するために臣下の墓に対しても供物を供給していた。しかし中央権力の瓦解とともに、王による来世の保障は説得力を持たなくなった。かつて王によって独占されていた葬祭儀礼は臣下の間にも広がり、各人は独自に葬祭儀礼を行って来世を保障する努力を行った。王の永生を保障するピラミッド・テキストに類似した呪文が臣下の墓にも記されるようになり、これはコフィン・テキスト(棺柩文)と呼ばれている。こうした動きはやがて一般民衆にまで及んだ。この過程は葬祭の「民主化」と呼ばれている。
そしてこの時代に急激に普及するのがオシリス信仰である。オシリス神の起源はわかっていない。伝統的な説として、アッシリアのアッシュール神と同一の起源を持つという説や、オシリスを表すヒエログリフが座席と眼によって構成されるところから王権と関連付ける説もある。古くよりオシリス神は登場し、第3王朝時代のレリーフにも表されているが、オシリスが本格的に信仰の対象として登場するのは第5王朝末期以降である。第5王朝のウナス王のピラミッド・テキストにはオシリスが他の神々とともに登場する。
オシリス信仰の重要な中心地となったのが上エジプト第8県にあるアビュドスである。この地では古くよりケンティアメンティウ神[9]と呼ばれる死者の神が祭られていたが、その後主神の座をオシリス神に譲り同一視されるようになった。「人は死ねば誰もがオシリス神となり、復活して来世を迎える」というオシリス信仰は、王やその周辺の臣下に限られていた復活と再生の権利を一挙に大衆化した。この思想は急速にエジプト全土に広まり、第1中間期以降にはオシリス神に対する信仰はエジプトの宗教における最も重要な要素の1つとなった。第11王朝によるエジプトの再統一を迎えると人々はこぞってアビュドスへの巡礼を行い、再生と復活を祈願するようになった。このアビュドス巡礼はその後長期にわたって存続していくのである[10]。
[編集] 第1中間期の遺構
第1中間期はエジプトの分裂のために労働力や建材の確保が困難になったと見られ、古王国時代のピラミッドや太陽神殿のような大型建造物の出土例は少ない。まず古王国時代の代表的な建造物であるピラミッドの建造は、恐らく第7、第8王朝というメンフィスの政権によって建設が続けられてはいた。第8王朝のカカラー王が建設した小さなピラミッドがサッカラの南から発見されており、内部からピラミッド・テキストも発見されている。またヘラクレオポリス政権に仕えたと見られる州侯たちの墓が発見されている。第9王朝の州侯であったと考えられる貴族アンクティフィの墓は建造物の少ないこの時代の遺構として特に貴重である。彼はヘラクレオポリス政権において強力な力を持っていたらしく、「我に並ぶ者は過去にも未来にも出現しない」と墓に記していた。
やがて第11王朝のメンチュヘテプ2世によるエジプト統一は建築にも画期的な変化を齎した。ルクソール近郊で発見されているメンチュヘテプ2世の葬祭殿はエジプト王朝が再び統一し、強大な国家となったことをその巨大さによって伝えているのである。
[編集] 注
- ^ 古代エジプト語ではセバトと呼ばれたが、ギリシア語に由来するノモスの表記が慣習的に広く普及している。
- ^ 以下に登場する上エジプトの県についての大まかな位置についてはこちらを参照。
- ^ ヘラクレオポリスという名は、この都市で祭られていた地方神ヘリシェフをギリシア人がハルサフェスと呼び、名前の類似等からヘラクレスと同一視したことによって付けられたギリシア語名である。
- ^ マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
- ^ この作品を記したパピルスはオランダのライデン博物館に収蔵されている。『イプエルの訓戒』のうち現存するのは紀元前13世紀から紀元前12世紀頃に写されたと考えられる写本である。成立年代については長い議論があるが、ここでは通説に従い第1中間期に成立したとする立場に立っている。この作品は現状の悲惨さを訴えるのみならず、変革と秩序ある社会を実現するための叱責も含まれており、政治論的な色彩も帯びた文書である。
- ^ 文書内では「人となった。」と表記されている。本当の「人」とはエジプト人のみであるとする伝統的な見解が存在した。蛮族がエジプトに侵入して土着していったことが推察される。
- ^ 『イプエルの訓戒』の該当する部分では明確に非難の対象の名が記されてはいない。通常神、或いは王を相手とすると解釈される。全文の和訳が参考文献「イプエルの訓戒」『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に収められている。
- ^ 『メリカラー王への教訓』についてはエジプト第10王朝の記事も参照。全文の和訳が参考文献『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集に収められている。
- ^ この神の名は「西方にいる人々(死者)の中の第1人者」という意味である。参考文献『エジプトの考古学』参照
- ^ アビュドス巡礼について近藤二郎は、キリスト教のエルサレムへの聖地巡礼や、イスラーム教のマッカ(メッカ)への巡礼のような、一神教のものとはやや色合いを異にし、むしろ日本のお伊勢詣に近い物であると述べている。参考文献『エジプトの考古学』参照
[編集] 参考文献
- 杉勇他『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』筑摩書房、1978年。
- ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳『考古学から見た古代オリエント史』岩波書店、1983年。
- 岸本通夫他『世界の歴史2 古代オリエント』河出書房新社、1989年。
- 高橋正男『年表 古代オリエント史』時事通信社、1993年。
- 吉村作治『吉村作治の古代エジプト講義録 上』講談社、1996年。
- 近藤二郎『世界の考古学4 エジプトの考古学』同成社、1997年。
- 大貫良夫他『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』中央公論新社、1998年。
- 前川和也他『岩波講座 世界歴史2』岩波書店、1998年。
- ピーター・クレイトン著、吉村作治監修、藤沢邦子訳、『ファラオ歴代誌』、1999年。
- 三笠宮崇仁『文明のあけぼの 古代オリエントの世界』集英社、2002年。
- 初期王権編纂委員会『古代王権の誕生3 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編』角川書店、2003年。