エリア・カザン
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エリア・カザン(Elia Kazan,本名Elias Kazanjoglou,1909年9月7日 - 2003年9月28日)は、俳優、演出家、映画監督。イスタンブル生まれのギリシャ系アメリカ人。息子は映画監督で脚本家のニコラス・カザン。
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[編集] 経歴
[編集] 誕生からアクターズ・スタジオ創設まで
エリア・カザンは当時オスマン帝国の首都であったイスタンブルのギリシア人の家庭に生まれた。1910年代にギリシャがオスマン帝国と戦争したためにギリシャ人は住みづらくなったので、カザンが4歳のとき、両親はアメリカ移住し、ニューヨークで絨毯の輸入販売を手がけた。
カザンは演出家を目指し、イェール大学などで演劇を学んだ。1933年、ニューヨークの劇団「グループ・シアター」(1931年創設、1941年解散)に入団。俳優として舞台に立った。初舞台作品は、クリフォード・オデッツの『レフティを待ちながら』(1935年)。この頃カザンは、米国の共産党に短期間入党していた。
グループ・シアターは、モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーの構築した演技理論「スタニスラフスキー・システム」を俳優指導法として採用していた。この事が、後の「アクターズ・スタジオ」創設、そして「メソッド」の誕生に繋がる。
1942年、ソーントン・ワイルダーの戯曲『危機一髪』(The Skin of Our Teeth)を演出。同作品はピューリッツァー賞を受賞し、カザンは演出家として頭角を現した。 1944年、映画『ブルックリン横丁』を監督。ハリウッド進出の第一作目となる。 1947年、『紳士協定』を監督。ユダヤ人問題を取り上げたハリウッド最初の映画として話題を呼び、アカデミー賞で作品賞、監督賞、助演女優賞を受賞した。この成功で、エリア・カザンはハリウッド映画界において確固たる地位を築いたと言える。
同年、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』を演出し、ニューヨークのバリモア劇場にて初演。主演はジェシカ・タンディ、マーロン・ブランド。同作品は大成功を収め、ピューリッツァ賞、ニューヨーク劇評家サークル賞、ドナルドソン賞などの演劇賞を受賞した。
同年、カザンは、演出家のリー・ストラスバーグなど先述のグループ・シアターの同窓生らと共に、俳優養成のための学校「アクターズ・スタジオ」を創設。アクターズ・スタジオは、スタニスラフスキー・システムに基礎を置いた演技法「メソッド」を教授し、マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーンなどの他、名優と評価される俳優を数多く生みだしていった。
メソッドを習得した俳優たちを用いたエリア・カザンの監督映画は、ハリウッドに新風を送り込み、映画俳優の演技法に多大な影響を与えていった。
[編集] 赤狩りの時代
1949年、アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』を演出。ニューヨークのモロスコ劇場で上演(初演)されたこの作品は、ピューリッツァー賞、ニューヨーク劇評家サークル賞、トニー賞などを受賞した。 1951年、カザンは映画版の『欲望という名の電車』を監督した。主演はヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランド。同作品は大ヒットし、アカデミー賞の4部門で受賞した。
当時米国は、旧ソビエト連邦との冷戦の時代を迎えていた。芸術家や文化人が公然と糾弾され、時にその職が奪われるような事態がまかり通っていた。共産主義者の疑いのある者を糾弾する「赤狩り」の先鋒、下院非米活動委員会によって、数多くの芸術家が非難の対象となり、創作活動の中断を余儀なくされた。米国の演劇界やハリウッドの映画界もその嵐に巻き込まれていた。
1952年、下院非米活動委員会によって、元共産党員であるエリア・カザンも共産主義者の嫌疑がかけられた。カザンはこれを否定するために、共産主義者の疑いのある者として11人の友人劇作家・演出家・映画監督・俳優などの名前を、同委員会に公表した。そのなかには、劇作家・脚本家のリリアン・ヘルマン、小説家のダシール・ハメットなどの名前もあった。以降もカザンは、演劇界・映画界において精力的に活動を続け、名作と呼ばれる作品の誕生に数多くの関わっていくが、この告発行為は、後のカザンの経歴およびその作風に暗い影を落とすこととなった。
同年、映画『革命児サパタ』を監督。主演はマーロン・ブランド。カザンはこの映画のなかに、共産主義に対する批判のメッセージを込めたと言われている。
[編集] その後の活動
1954年、映画『波止場』を監督。同映画はアカデミー賞において8部門の受賞を果たした。 1955年、映画『エデンの東』を監督。アクターズ・スタジオ出身の俳優ジェームズ・ディーンの出世作となる。 同年、テネシー・ウィリアムズの戯曲『熱いトタン屋根の猫』を演出し、ニューヨークのモロスコ劇場で上演(初演)。同作品はピューリッツァ賞を受賞した。 1961年、映画『草原の輝き』を監督。主演はナタリー・ウッドとウォーレン・ビーティ。 1962年、小説『アメリカ、アメリカ』を執筆。1963年にはこの小説から脚本を起こし映画化、監督した。 1988年、自叙伝を出版。
[編集] 晩年 - アカデミー賞名誉賞の授与
1998年、アカデミー賞の名誉賞を与えられたが、一部の映画人からはブーイングを浴びた。プレゼンテーターはマーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロ。しかしリチャード・ドレイファスは事前に反対の声明を出し、ニック・ノルティ、エド・ハリス、イアン・マッケランらは受賞の瞬間も硬い表情で腕組みしたまま沈黙の抗議。スティーブン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしたが、席を立とうとしなかった。起立して拍手した人はウォーレン・ベイティや、ヘレン・ハント、メリル・ストリープ等。通年この賞の授けられる瞬間は全員起立と拍手が慣例のため会場内は異様な空気に包まれた。
問題の過去にも触れた自伝は、『エリア・カザン自伝』上下(1999年 朝日新聞社)の邦題で翻訳がある。彼は、小説も何冊か書いている。『代役』(1977年)、『アメリカの幻想』(1978年)など。
[編集] 主な作品
[編集] 舞台
[編集] 監督した映画
- 栄光の都 City for Conquest (1940)
- ブルックリン横丁 A Tree Grows in Brooklin (1945)
- 大草原 The Sea of Grass (1947)
- 紳士協定 Gentleman's Agreement (1947)
- 影なき殺人 Boomerang (1947)
- 暗黒の恐怖 Panic in The Streets (1950)
- 欲望という名の電車 A Streetcar Named Desire (1951)
- 革命児サパタ Viva Zapata! (1952)
- 綱渡りの男 Man on A Tightrope (1953)
- 波止場 On The Waterfront (1954)
- エデンの東 East of Eden (1954)
- ベビイ・ドール Baby doll (1956)
- 群衆の中の一つの顔 A Face in the Crowd (1956)
- 荒れ狂う河 Wild River (1960)
- 草原の輝き Splendor in the Grass (1961)
- アメリカ アメリカ America. America (1963)
- アレンジメント/愛の旋律 Arrangement (1969)
- 突然の訪問者 The Visitors (1972)
- ラスト・タイクーン The Last Tycoon (1976)
カテゴリ: アメリカ合衆国の映画監督 | ギリシャ系アメリカ人 | 1909年生 | 2003年没