エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント
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エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント(Emma von Waldeck-Pyrmont, 1858年8月2日 - 1934年3月20日)は、ヴァルデック侯国の王族。ヴァルデック侯ゲオルク・ヴィクトルの四女で、後にオランダ王兼ルクセンブルク大公ヴィレム3世の王妃、さらに夫の歿後王太后としてオランダの摂政(在位:1890年 - 1898年)となった。全名はアーデルハイト・エンマ・ヴィルヘルミーネ・テレーゼ(Adelheid Emma Wilhelmine Therese)。
1858年8月2日、ヴァルデック侯ゲオルク・ヴィクトルとその最初の妃であったナッサウ公ヴィルヘルム1世の娘ヘレーネ(1831年 – 1888年)の間に第四子としてヴァルデック侯国の首都であったアロルゼン(現ヘッセン州ヴァルデック=フランケンベルク郡バートアロルゼン)で生まれた。
エンマは二年前に最初の王妃ゾフィーに先立たれていたヴィレム3世に求婚され、1879年1月7日に結婚した。ヴィレム3世は数々の女性と不倫を繰り返してニューヨーク・タイムズ紙に「この世代最大の放蕩者」("the greatest debauchee of the age")と評され、先だって再婚を申し込んだデンマーク王女ティーラやエンマの姉であるヴァルデック侯女パウリーネには断られていた。しかし二人に41歳の年齢差があったこの結婚生活は幸せなもので、ヴィレム3世の浮気癖や気まぐれは再婚後には影を潜めた。
1880年代頃までにオランダ王家の男子が次々と死去し王位継承権者が払底する危険性が出てきたため、オランダは憲法を改正して女子や女系にも王位の継承を認めるようになった。そして1884年にエンマの義理の息子であるオラニエ公アレクサンダーが病死して王家にヴィレム3世以外の男子がいなくなると、エンマの一人娘であるヴィルヘルミナがオランダ王位の推定相続人となった。
1888年から病床に伏せっていたヴィレム3世は1890年に歿し、弱冠10歳のヴィルヘルミナが女王として即位した(ただしルクセンブルク大公位はナッサウ家の家法により遠戚のアドルフが嗣いだ)。王太后となったエンマはオランダ議会によって摂政に指名され、ヴィルヘルミナが成人するまでの8年間に亘り政務を代行した。権威主義的な行動が見られたヴィレム3世とは対照的に、エンマは立憲君主制の確立に務めた。
1934年3月20日、エンマは気管支炎のためハーグで死去した。遺体はデルフトに葬られている。
[編集] 子女
夫であるヴィレム3世との間には一女をもうけた。
- ヴィルヘルミナ・ヘレナ・パウリーネ・マリア (1880年 – 1962年、オランダ女王)