エヴァリスト・ガロア
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エヴァリスト・ガロア(Évariste Galois, 1811年10月25日 - 1832年5月31日)は、フランスの数学者および革命家。より発音に忠実にガロワと書かれることもある。
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[編集] 数学的業績
ガロア理論の構成を通じた体論や群論の先見的な研究によって知られる。彼は代数方程式の「対称性」を群の言葉で表現することで、アーベルによる「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理の証明を大幅に簡略化し、またより一般に、どんな場合に与えられた方程式が代数的な解の表示を持つかについての特徴付けを与えた(ガロアはこの発見はアーベルとは独立したものであると主張している)。ガロア理論に端を発する考え方は現在では抽象代数学、疑似乱数列(PN)、誤り訂正コーディングなど、数学、物理学、コンピュータなどのあらゆる分野にあらわれている。また彼が取りあげた数学的対象である群は、代数学で重要な役割を果たすほか、相対性理論や量子力学などの現代物理学を中心として、20世紀科学の多くの分野における数学的枠組みとして大きな影響を与えている。 しかし、ガロアの業績の真実と重要性や先見性は当時、世界最高のレベルにあったパリ科学アカデミーにさえ理解されず、生前に評価されることはなかった。
[編集] 生涯
ガロアについては、その群論の内容が難解であるため、一般にはその激動の生涯の方がよく知られている。数学的業績については死後14年たってから注目を集めていたが、人物像についての研究が最初に発表されたのは1896年、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)の歴史学教授、ポール・デュピュイの約70ページの論文「エヴァリスト・ガロアの生涯」であった。デュピュイはガロアの母方の親戚、姉の遺族、および当時まだ存命だったガロアの学友の証言を得た上で、様々な資料を纏め上げてこの論文を完成させた。また、有名なガロアの15歳頃の肖像画も、姉の遺族が所有していたものをデュピュイによって同時に発表されている。この論文はその後のガロアの研究には欠かせない資料となり、今日まで影響を与えている。以下の記述も、注記がない限りはデュピュイの論文に基づいている。
[編集] 誕生
ガロアは1811年、パリ郊外の町ブール・ラ・レーヌ(「女王の町」の意)に生まれた。父ニコラ・ガブリエル・ガロアは当時公立学校の校長で、のちに町長に任命された。社交的な性格で、即興で詩を作ることが得意だったという。母アデライド・マリ・ドマントは親族が法学と古典の教授が多かったこともあり、教養の深い人物であった。また、2歳上の姉ナタリー・テオドール、3歳年下の弟アルフレッドがいて、この5人家族は明るい家庭を築いていたようである。エヴァリストは12歳までは母親の元で教育を受けていたが、1823年からは寄宿制でパリの名門リセであるルイ・ル・グラン校に入学した。
[編集] ルイ・ル・グラン在籍時
ガロアが入学した当時、王政復古の影響もあって校長は保守的・宗教的であり、生徒はしばしば反抗した。このような校内の雰囲気が、ガロアの性格や思想に影響を与えたようである。一方、学業においては入学翌年の第3学年にはラテン語の最優秀賞やギリシア語の優秀賞を得るなど良好であった。しかし翌年の第2学年になると(フランスの学制では始業は9月からで、進級する度に3年、2年、1年と年次が減っていく)学業を疎かにするようになり、また健康上も優れていなかったので、校長からは第2学級をもう一度やり直した方が良いという意見が出された。当初は予定通り修辞学級に進んだものの、やはり学習態度は直らず、結局2学期から留年することとなった。
そこで時間を持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった。当時のフランスでは数学教育は重視されておらず、数学は将来の進む方向によって補習科で教えられていたのみだった。当時の数学教師ヴェルニエは若く熱心であり、エウクレイデスからルジャンドルに至るまでの幾何学を教えていた。ガロアの学友によれば、ガロアはルジャンドルが著した初等幾何学の教科書を読みはじめたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材を2日間で読み解いてしまったという。また同時に、彼は五次方程式の解法を発見したと錯覚し、凡庸な数学的才能しか持たないヴェルニエは対応に苦慮したという。記録によれば、ヴェルニエを初めとする教師のガロアへの評価は時間を経るごとに低下したようであり、また学校は「数学への熱狂に支配されている」と評価している。また1828年理工科学校の試験に挑戦したが、失敗している。
同年にはガロアは飛び級で数学特別級に進級した。この時修めた物理と化学では「少しも勉強しない」と酷評されている。一方、数学ではリシャールという優れた教師に出会い、リシャールもガロアを高く評価した。またリシャールから代数方程式解法に関するラグランジュの論文を薦められたようで、その影響で1829年4月1日に最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」を発表している。約1ヵ月後、ガロアは弱冠17歳にして素数次方程式を代数的に解く方法を発見し、その研究論文をコーシーに預けフランス学士院に提出するように頼んだが、コーシーはそれを紛失してしまう。1971年に数学史家ルネ・タトンが発見した書簡によれば、コーシーはガロアにその論文を学士院に発表すると約束しておきながらそれを反故にし、挙句に紛失してしまったので、1830年1月にガロアにもう一度論文を学士院に送るよう連絡した。
さらに1829年7月2日、ガロアの父ニコラがパリのアパルトマンで自殺した。ガロアの親族がデュピュイに語った内容によると、当時は王政復古の影響で教会は保守的な勢力で占められ、教会の司祭と自由主義的な思想の町長である父ニコラには何かと反発していた。そこで、ニコラの詩の文体を真似て卑猥な詩を作り、それがニコラのものであると言いふらした。その中には家族を傷つけるものもあり、ニコラは精神を病んだ結果、自殺したという。父を敬愛していたガロアにとっては当然この事件は深い傷となった。さらにその同月または1ヵ月後には、彼は再び理工科学校への受験に挑戦したが失敗した。伝説によれば、この時の試験官が対数に関する愚問をしつこく出し、ガロアの回答に満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官に向かって黒板消しを投げつけたという。理工科学校は最も高等な数学が教えられ、さらに自由主義的な雰囲気に見ていたためにガロアは入学を切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロアの望みは絶たれてしまった。 10月、ガロアはリシャールの薦めによりもう1つの有名な大学・教師予備校(後の高等師範学校)に受験し、入学が認められた。なお理科の試験において、数学では「才能に恵まれており、非常に注目すべき研究精神を持っている」と賞賛されたが、物理では「彼は全く何も知らず、とてもよい教師になれそうもない」と酷評されている。さらにはバカロレアにも合格し、1830年2月20日付で10年間公教育のために働く宣誓書を提出している。
[編集] 師範学校時代
宣誓書提出の少し前に、ガロアは以前コーシーが紛失した論文を書き直した上で、改めてフランス学士院に提出した。だが、その審査員で論文を預かっていたフーリエが急死したため、またしても論文は紛失してしまった。こうして立て続けに起きた不運や挫折は、ガロアの政治活動をますます活発にさせた。
教師予備校ににおいて、ガロアはオーギュスト・シュヴァリエという共和主義者と出会っている。彼の影響で共和主義に傾倒していったガロアは、フランス7月革命にも参加しようと試みた。しかし日和見的な校長ギニョーはそれを許さず生徒を校舎に閉じ込め、ガロアは反発を強めていった。9月になると教師予備校は「師範学校」と改められ、修業期間が2年から3年に延びたため、早い卒業を望んでいたガロアを一層苛立たせた。ガロアは過激な共和主義者の秘密結社「民衆の友の会」に加わり、さらに度々校長の言動に反発したため、目を付けられるようになった。12月3日、一連のギニョーの対応を嘲笑するようなガロアの記事を学校新聞で発表したため、ギニョーはガロアの放校を決意し、1831年1月に正式に決定した。
[編集] 政治活動の激化
以前、ガロアが執筆した論文が不運によって2度も紛失したことに同情した学士院のポアソンが1831年1月16日、ガロアにもう一度学士院に論文を提出するよう呼びかけ、その誘いに応じて再度論文を提出した。その頃のガロアは相当荒んでたようで、女性数学者ソフィ・ジェルマンはその様子を記した書簡を残している(この手紙が発見されたのは20世紀後半である)。それによると、ガロアは数学の会合で悪態をつき、さらに家庭でも態度は直らず母は家を出ざるを得ない状況となり、まるで狂ってしまったようだったという。
4月、解散を命じられた国民軍(フランス革命の際に自警団の役割を担って市民の間で結成された)19人が制服を着用してパリの街中を歩いたために逮捕された。この事件は5月2日に無罪判決が出たが、その日の夜にレストランで開催された祝宴会において、ガロアはナイフの切先をグラスに突き出す形で「ルイ・フィリップに乾杯」と叫んだ。これが王の命を脅かすものとして、翌日ガロアは逮捕された。6月15日に開かれた裁判では、ガロアは自分が不利になる供述も平然と行ったが、弁護士の努力により無罪となった。この裁判の模様は、アレクサンドル・デュマの回顧録にも詳細に記載されている。
7月14日、ガロアは法律学校の学生で同じ「民衆の友の会」のヴァンサン・デュシャートレと共に、国民軍の制服と以前王の命を脅かしたナイフを着用してパリ市内を行進し、ポン・ヌフ橋上で逮捕された(国民軍は再結成されていたものの2人は登録していなかった)。裁判で有罪が確定し、デュシャートレは禁固3ヶ月、ガロアは禁固6ヶ月の刑を宣告された(ガロアの方が重いのは、問題のナイフを所持してたためである。)
[編集] 投獄と死
サント・ペラジー刑務所において、かつてポアソンに送った論文が「説明不十分で理解できないから、もっとわかりやすく書き直して欲しい」というポアソンの返事と共にガロアに返却された。加えて、刑務所内でガロアは他の囚人から虐められ、飲酒を強要されることもあったことが、同時期に獄中にいた薬学者のラスパイユの獄中記に記されている。また、姉ナタリーや弟アルフレッドは何度かガロアの元へ面会に訪れているが、12月付けのナタリーの日記にはガロアがひどく不健康で老け込んだ様子が記されている。また、同じ共和主義者のオーギュスト・シュヴァリエも何度も面会に訪れ、友情を深めていたようである。
この年の暮れよりパリ市内でコレラが流行し、ガロアは刑期を1ヶ月残して1832年3月16日、監獄から数百メートル離れたフォートリエ療養所へ仮出所した。その後、そこで失恋を経験したようで、5月25日には絶望に打ちひしがれた心境を綴った手紙をシュヴァリエに送っている。そして29日夜から30日未明にかけて、つまらない色女に引っかかって愛国者に決闘を申し込まれたために別れを告げる旨の共和主義者への2通の手紙、およびシュヴァリエに対する数学的な発想(5次方程式の楕円モジュラー関数を用いた、超越的解の公式のアイディア)を断片的に書いた手紙を大急ぎでしたためている。30日早朝、近くの沼の付近で決闘は行われた。その結果ガロアは負傷し、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院に運ばれた。ガロアが牧師の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。弟の涙ぐむ姿をみて、ガロアはこう言ったという。
- Ne pleure pas, Alfred ! J'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans ! (アルフレッド、泣くな。僕にもずいぶん勇気がいる。20歳で死ぬのだから)
それが最後の言葉となり、夕方には腹膜炎を起こし、31日午前10時に息を引き取った。彼の葬儀は6月2日にモンパルナスの共同墓地で行われ、2000~3000人の共和主義者が集まり、「民衆の友の会」の2人の会員が弔辞を読み上げた。現在その墓地は跡形も残っていない。
[編集] 死後の動き
ガロアの死後、弟アルフレッドやシュヴァリエは遺書に従ってガウスやヤコビなどへ論文の写しを送ったようだが、当初は誰も理解できるものはいなかったようである。しかし、何らかのきっかけでその写しが1843年頃にリューヴィユの手元に渡った。リューヴィユはこの論文を理解しようと努め、ついに1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』に掲載された。その際、ガロアが生前認められなかった理由を、簡潔にまとめようという意識が過剰で明快さに欠けたためと分析している。さらに1870年にカミーユ・ジョルダンが著した「置換論」によって、ガロアの理論は確立された。
[編集] 決闘
[編集] 陰謀説
ガロアが起こした決闘の原因はある女性の名誉を守るためといわれていたが、忠実な共和党員であった彼は、反動派か秘密警察によるものという説もあった。その中でも有名なのがレオポルト・インフェルトの1948年の著書「神々の愛でし人」である。その根拠としてインフェルトは、ガロアが投獄中に彼の部屋に銃弾が打ち込まれた事実がラスパイユによって記録されていること、ガロアの弟アルフレッドは生涯兄エヴァリストは謀殺されたと主張していたこと、当時の警視総監ジスケが1840年に著した「回顧録」において、当時ガロアの葬儀の際に蜂起しようと共和主義者が計画していたところを事前に察知して検挙した事実を挙げている。
しかしながら、インフェルトは自説に都合の悪い箇所はわざと隠していた。例えば、アレクサンドル・デュマの回顧録には、ガロアを殺したのは「民衆の友の会」の一員であるペシュー・デルバンヴィルという人物であると記述し、これを受けてインフェルトもデルバンヴィルがスパイであったと記述している。しかし、共和主義者の秘密結社に潜入していた警察側のスパイは1848年に、同様にスパイであったド・ラ・オッドによって全て暴露された。その時、デルバンヴィルはフォンテーヌブロー城の管理という重要な役目を任されていて、彼がスパイだったということはあり得ないとデュピュイは記している。さらに、ガロアがサント・ペラジー刑務所において、「僕はつまらない色女のために、決闘で死ぬこととなるだろう」という自分の将来に対する予言がラスパイユの獄中記に書かれていた事実を、インフェルトは意図的に自身の作品に書かなかった。
インフェルトがこのような作品を記したのは、自身の祖国ポーランドがナチス・ドイツの侵攻を受け、ガロアに自身の姿を重ね合わせたためと思われる。なお、インフェルトは文頭と文末に、新しい証拠が発見されて真相がさらに明らかとなる可能性は極めて疑わしいと述べている。しかし、その予測は誤りであった。
[編集] 新資料の発見
1962年、アメリカ合衆国ニューヨーク州のイサカという町で科学史の国際会議が行われた時、ウルグアイ出身の学者インファンントッツィによって、決闘の原因と言われていた女性の詳細が明らかとなった。彼女の名はステファニー・フェリス・ポトラン・デュモテルといい、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の医師で所長だったジャン・ルイ・ポトラン・デュモテルの娘であった。彼らは親子共に親切な人物で、ガロアはステファニーの親切を好意と錯覚して求婚したらしく、それに対する断りの手紙がガロア自身の筆跡でシュヴァリエへの書簡の裏に転記されていた。その文面は礼儀正しいものであり、少なくとも彼女が「つまらない色女」などではなく、そもそもガロアの遺書が真実を記したものではないことが明らかとなった。
さらにその後、ガロアの死に関する記述が記載されたリヨンの新聞「先駆者」が発見された。それによれば、ガロアはかつて同時に法廷に出たことのある友人L.D.によって殺され、その際は用意した拳銃の片方にだけ弾丸をこめ、くじを引いてどの拳銃を使うかを決めたということである。なお、ガロアと一緒に法廷に出た人物といえばデュシャートレしかいない(彼のイニシャルはV.D.だが)。
以上の資料を精査した上で、現在のところガロアに関する最新の研究成果は、イタリアの女性数学史家ラウラ・トッティ・リガテリの1993年の著書「バリケードの中の数学」である。その中でリガテリは、決闘であるならば勝つ可能性もあるのに、ガロアの死を確信した遺書に対する不自然さを指摘し、決闘の真相を次のように解釈している。ステファニーに失恋したガロアは、「民衆の友の会」の会員と共に民衆を蜂起させる方法を考えていた時、ガロアが自分が犠牲となってその機会を作ることを提案した。デュシャートレがその相手を務めることとなり、ガロアは共和主義者の感情を煽るためにわざと無念を強調した遺書をしたためた。そして予定通り決闘を装った工作が行われてガロアは死亡し、あとは葬儀において蜂起するだけとなった。ところが葬儀の当日、フランスの英雄であるラマルク将軍の訃報が伝わり、ならばそれを契機に蜂起した方がいいと急遽予定が変更された、ということである(その後の暴動の様子はヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」に詳しい)。
[編集] 参考資料
- 「ガロア その真実の生涯」 著: P・デュピュイ / 訳: 辻雄一 / 発行: 東京図書
- 「ガロアの生涯 神々の愛でし人」 著: L・インフェルト / 訳: 市井三郎
- 「ガロアの時代 ガロアの数学」 著: 彌永昌吉 / 発行: シュプリンガー・フェアラーク東京
- 「天才数学者はこう解いた、こう生きた」 著: 木村俊一 / 発行: 講談社