カール・フリードリヒ・ガウス
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss(Gauß)、1777年4月30日 - 1855年2月23日)はドイツの数学者、天文学者、物理学者である。彼の研究は広範囲におよんでおり、特に近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられている。数学や磁気学の各分野には彼の名が付いた法則、手法等が数多く存在する。子供の頃から数学の才能を発揮し、歴史上の最高の数学者のひとりである。
目次 |
[編集] 略歴と業績
- 1777年 - ブラウンシュヴァイクに生まれる
- 1792年 - 素数定理の成立を予想
- 1795年 - 最小二乗法発見
- 1796年 - ガウス相互法則の証明。コンパスと定規のみで正十七角形を作図できることを証明
- 1799年 - 代数学の基本定理の証明
- 1801年 - 整数論の研究出版 複素数表記、現代整数の表記導入
- 1801年 - 円周等分多項式
- 1807年 - ゲッティンゲンの天文台長になり、以後40年同職につく
- 1809年 - 天体運行論出版 最小二乗法を用いたデータ補正、正規分布
- 1811年 - 複素積分、ガウス平面(複素数平面)ベッセルへの手紙
- 1827年 - 曲面の研究出版、微分幾何学を創始
- 1855年 - ゲッティンゲンで死去
[編集] 生い立ちと幼年期
ガウスはドイツのブラウンシュヴァイクで煉瓦職人の父親と、清楚な母親の元に生まれた。子供の頃から彼は神童ぶりを発揮し、逸話として、小学校での話がのこっている(彼は後年好んでこの話をしたそうだ)。ある時、1から100までの数字すべてを足すように課題を出された。それを彼は、1+100=101、99+2=101、98+3=101・・・となるので答えは101×50=5050だ、と即座に解答して教師を驚かせた。実際、算術の教師は彼の才能を見るにつけ、このような天才に自分が教えられることは何もないと言ったそうである。
(注:この逸話では、よく前記の初項=公差=1の等差数列が例に挙げられるが、説明の便宜上であり、実際には初項=81297、公差=198の等差数列であった)
また1792年頃、15歳当時の彼は、一日15分ずつの予備の時間を当てて1000個ずつの自然数にそれぞれ幾つの素数が現れるかを調べ、その次第に減っていく様子から、約100年後に証明されることになる素数定理を予想した。
[編集] 思想とおもな業績
ガウスは奨学金を得て大学に進み、数々の重要な発見を行った。彼は、古代ギリシアの数学者達に起源を持つ定規とコンパスによる作図の問題に正確な必要十分条件を与え、正17角形が作図できることを発見した(1796年)。作図できる正(素数)角形は古来から知られていた正三角形と正五角形のみだと考えられていたのでこの発見は当時の数学界に衝撃を与えた。作図できる正多角形の種類が増えるのは約二千年ぶりのことであった。彼はこの結果を非常に喜び、この成果である正17角形を墓標に刻むように申し入れた(結局、これは実現されなかったが、彼の記念碑には正17角形が刻まれている)。また、この発見の日より、数学的発見を記述したガウス日記をつけはじめ、また自分の将来の進路を数学者とすることに決めたといわれる。学位論文で彼は代数学の基本定理を最初に証明した。後に彼はこの問題に対して4つの異なる証明を行い、複素数の重要性を決定付けた。
ガウスのもっとも偉大な貢献は数論の分野である。この分野だけが、その全貌ではないにしろガウスの研究が体系的にまとめられて出版された。それが1801年に発表したDisquisitiones arithmeticae(邦題『ガウス整数論』)であり、そのほとんどのページが二、三元の二次形式の研究に当てられている。この本は、数の合同の記号を導入し合同算術の明確な表現を与え、平方剰余の相互法則の初の完全な証明などが与えられている。自然数の素数による一意分解の定理が明確に言明され、証明されたのもこの本が最初であった。しかしこの本は、あまりにも時代をぬきんでた難解な著作であり、その上出版社の問題から発行部数が相当低かったこともあって、実際には当時理解できるものはほとんどいなかった。結局それがようやく理解されるようになるのは、それを詳しく解読し講義したディリクレの時代になってからである。
ガウスは発表はしなかったが、解析学の分野でも時代をはるかに先んじた研究を行っていた。当時はまだ複素数が完全なる市民権を得ておらず、出来れば使用を避けたいという風潮のあった時代であった。そのため、ガウスは代数学の基本定理を証明した学位論文では誤解をさけるために虚数を表に出さず、多項式が実数の範囲内で1次または2次の因数に分解されるとした。そのような時代にあっても、早くから虚数への偏見から完全に自由であったガウスは複素数の世界に深く分け入り、数多の美しい結果を得た。まず最初は1797年から始まる楕円関数の最初の研究、レムニスケート関数の発見である。そして1800年には一般楕円関数を発見し、その理論を展開した。楕円関数の発見が世の中に最初に公表されたのは 1828年のクレルレ誌上のニールス・アーベルの論文によってであるから、ガウスがいかに時代を先んじていたかが分かる。また同じ1800年頃、モジュラー関数を発見してその理論を組み立てたが、それはデデキントの同種の仕事に先立つこと50年であった。一方、関数論は1825年のコーシーの虚数積分の論文に端を発し、その後30年を掛けて対象としての解析関数の認知にまで発展したが、ガウスには1811年にはすでに、後に「コーシーの積分定理」として知られる事柄を確実に認識し、使いこなしていた。すでに1790年代の中頃からガウス平面上でものごとを考えていたガウスの眼には二重周期関数の存在は自明で、三角関数の拡張を目指して楕円積分の逆関数を考え、その結果 「楕円関数」を得たのもごく自然の動きであり、また複素積分での積分路の役割を考えてコーシーの積分定理の内容に逢着したのもこれまたごく自然であろう。
ガウスがこのように成果を発表せずにいたのには幾つかの要因があると思われる。その1はガウスにとっては研究で美しい結果を得ることが最大の報酬であり、他人の認知を必要としなかったことである。そしてその2は世間の無理解、誤解によって生ずる論争の煩わしさを嫌ったことである。実際、ガウスは非ユークリッド幾何学の可能性についての自身の考えが世に漏れることに極めて慎重であった。そしてその3は当時の成果発表手段の乏しさである。その頃は今のように論文原稿を送るべき学会誌や論文雑誌は存在せず、成果発表は主として自家印刷の小冊子や単行本によった。実際、ガウスの整数論は単行本として発表され、アーベルの「代数方程式に関する論(五次の一般的な方程式を解くことの不可能の証明)」は自家印刷の粗末な小冊子として出されて世間に認知されずに終った。アーベルのこの論文や楕円関数論が世間に認知されたのは1826年に論文雑誌「クレルレ誌」が創刊され、それに寄稿しての話である。このような時代にあってガウスは解析学の大著述を計画するが、研究が進展して考察の範囲がそれからそれへと拡大する中で完結の機会を逸し、ついに世に出ることがなかったという。
1809年にガウスはTheoria motus(『天体運行論』)のなかで彼の主要な研究であった最小二乗法のふるまいについて記す。これは現在の科学ではほぼすべての分野でデータを取る際に、誤差修正法として用いられている。また、最小二乗法の正確さを正規分布に基づいて表現できることを証明した。これについての論文は1805年にアドリアン=マリ・ルジャンドルが発表していたが、ガウスはこの理論に1795年には到達していた。
ガウスはブラウンシュバイク公爵から援助されて研究生活をしていた。それを不満と思っていたわけではなく、生活に困ってもいなかったが、数学そのものがそれほど世の中の役に立つとは考えていなかった。そのため、彼自身は天文学者になることを願うようになり、ケレス (小惑星)の軌道決定の功績が認められて1807年にゲッティンゲンの天文台長になった。そこでも測定用機材の開発(ガウス式レンズの設計)、楕円関数の惑星の摂動運動への応用など、数々の発見を行っている。
ガウスは非ユークリッド幾何学の一つである双曲幾何学の発見者でもある。しかしそれに関する発表は一切行わなかった。友人であるファルカス・ヴォルフガング・ボヤイはユークリッド幾何学以外の公理を発見しようと多くの年月を費やしたが失敗した。ボヤイの息子であるヤーノシュ・ボヤイは1820年代に双曲幾何学を再発見し1832年に結果を発表した。これについてガウスは「書かなくて良くなった」と発言している。この後、物理学の分野でこれが現実の世界にどれだけ妥当しているのかを計測しようと試みている。
1818年にハノーファー州の測量をする測定装置のために、後に大きな影響を与えた正規分布についての研究を始めた。これは測量結果の誤差に関する興味からである。
また、測量と微分幾何学への興味から、曲面論を創始し、ガウス曲率が等長写像に対する不変量であることを発見し、1827年に発表した。この発見は、曲面が持つ内在的性質の研究の道を開き、リーマン幾何学へと発展した。
また1831年には物理学教授のヴィルヘルム・ヴェーバーとの共著を行い、磁気学について多くの回答を与えた。ガウスの定理・ガウスの法則・ガウス(磁束密度の単位)・ガウス単位系は彼の名にちなむ。電気でのキルヒホッフの法則にあたるものを発見し、電信装置を作り上げた。これは1873年のヴィーン万国博覧会に展示された。
彼は数学の教授になったことはなく、教師となることも嫌ったが、リヒャルト・デーデキントやベルンハルト・リーマンなど彼の弟子達は偉大な数学者となった。
[編集] 生活と家庭、友人
ガウスは信心深く、保守的な人であった。彼は君主制を支持し、革命の際にはナポレオンと対立した。ガウスは最愛の妻、ヨハンナ・オストホフ(Johanna Osthoff, 1780年 - 1809年)が若くして亡くなり、さらにそれを追うように子供が亡くなり、私生活は暗いものであった。特に彼はヨハンナを精神的な意味も込めて溺愛しており、彼女の死は彼の精神に大きなショックを与え、以後完全に回復することはなかった。意外にも彼はルイスの死後、すぐにフリーデリカ・ヴィルヘルミーネ・ヴァルトエック(Friederica Wilhelmine Waldeck 愛称ミンナ:Minna)と2度目の結婚をしたが、この結婚はあまり幸せでなかったようだ。彼は亡き前妻の面影が離れず、妻への手紙にもそのことを書く始末である。彼女も1831年に長い病気の末に亡くなり、その後はガウスが亡くなるまで娘のテレーズ(Therese)が身の回りの世話をしていたようである。1812年から彼の母親が1839年に亡くなるまで一緒に住んでいた。彼は他の数学者と一緒になにかすることはほとんどなく、打ち解けない感じで厳粛な人だったと多くの人が伝えている。
ガウスには各妻に3人ずつで合計6人の子供がいた。ヨハンナ(Johanna)との間の子供は、ヨゼフ(Joseph, 1806年 - 1873年)、ヴィルヘルミーナ(Wilhelmina, 愛称はやはりミン, 1808年 - 1846年)、ルイス(Louis, 1809年 - 1810年)である。なかでもヴィルヘルミーナの才能はガウスに近いものがあったと言われているが、残念なことに彼女は若くして亡くなってしまう。ミンナ・ヴァルトエックとの間の子供はオイゲネ(Eugene, 1811年 - 1896年)、ヴィルヘルム(Wilhelm, 1813年 - 1879年)、テレーズ(Therese, 1816年 - 1864年)をもうけた。オイゲネは1832年ごろ父の元を離れてアメリカ合衆国に移住し、ミズーリ州のセント・チャールズに移住した。彼はそこで尊敬される存在となった。しばらく後にヴィルヘルムもミズーリに移住し、農業をはじめ、後にセントルイスで靴のビジネスで成功した。テレーズは結婚した後もガウスの面倒を見て家に留まった。
[編集] 晩年と墓所
ガウスはゲッティンゲンで1855年に亡くなり、Albanifriedhofの墓所に埋葬された。1989年から2001年にユーロ紙幣となるまで、彼の肖像と正規分布曲線が10マルク紙幣に印刷されていた。
生涯彼の弟子であったG・ワルドー・ダニングトンはガウスの伝記 『カール・フリードリヒ・ガウス: 科学の巨人』 など、多くの著作を残した。
[編集] ガウスの言葉
- 数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である。
- 僕は言葉を話すようになる前から計算をしていた
- 数値の法則は目に見えて現れるものだが、その証明は宇宙の闇に深く横たわっている(?曖昧、数値は数論ではないかと考えられるが、不明 <- (数値の意味は、近世数学史談に多く語られている))
- 狭くとも深く
- 僕に出された多くの問題はそれを見た瞬間に答えがわかった。
[編集] ガウスの名が付いた法則、記号、単位等
ガウス平面 - ガウス記号 - ガウス=ザイデル法 - ガウス分布 - ガウスの定理 - ガウスの法則 - ガウス曲率 - ガウス・ボンネの定理 - ガウス=ルジャンドルのアルゴリズム - ガウスの消去法 - ガウスの超幾何級数 - ガウス・マニン接続 - ガウス関数 - ガウス(磁束密度の単位)
1989年から2001年まで使われた10ドイツマルク紙幣にはガウスの肖像画がガウス分布の図、式とともに描かれていた。
2002年、国際数学連合とドイツ数学会はガウスの事跡を記念してガウス賞を創設した。
[編集] ガウスの著書
- ガウス整数論 (ガウス著、高瀬正仁訳 ISBN 4-254-11457-5 C3341)
- 誤差論
[編集] ガウスについての書籍
- ダ二ングトン 『ガウスの生涯 -科学の王者-』 東京図書 ISBN 4-489-00384-6
- S.G.ギンディキン 『ガウスが切り開いた道』 シュプリンガー・フェアラーク東京 ISBN 4-431-70704-2
- 高木貞治 『近世数学史談』 岩波書店(岩波文庫 青939-1) ISBN 4-00-339391-0
[編集] 関連