クリスティーナ (スウェーデン女王)
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クリスティーナ Alexandra Christina(1626年12月8日 - 1689年4月19日)は、17世紀のヴァーサ朝・スウェーデンの統治女王(在位1632年-1654年)。名君グスタフ・アドルフの娘。後世の歴史家は、クリスティーナを「バロックの女王」と呼んだ。スウェーデン普遍主義に則り、フィンランド大公を兼ねた最後のスウェーデン君主。
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[編集] 業績

父の死後に即位し、初め宰相であるウクセンシェルナ伯爵の補佐を受けたが、三十年戦争およびトルステンソン戦争終結の1644年頃から親政を行った。彼女の治世下でもスウェーデン軍はフランス王国と提携して中央ヨーロッパに進出し、ウェストファリア条約ではポメラニアのほか多数の都市と賠償金を得る。神聖ローマ皇帝に迫って新教徒の権益を拡げさせることにも成功している。オリバー・クロムウェルが護国卿をしていたイギリスと同盟を結び、スウェーデンのヨーロッパにおける大国の地位を安定させた。
豊かな教養を持ちグロティウスやデカルトと交わり、彼らを宮廷に招聘している。早くも20歳の時に王位を去る計画を立て、その7年後に従兄カール10世 に王位を譲り、外遊。翌年インスブルックで誓絶式を行いカトリックに改宗した。フランス・ドイツ・スウェーデンを数回旅行し、ポーランド王国、ナポリ王国の王位につこうとして失敗したのち、1668年からローマに定住し、学問・芸術・文学を研究する日々を送る。1674年にはローマにアカデミー(のちのAcademia clementina)を創設した。
クリスティーナ女王は、財政に疎く、あるいは無関心だった。後にスウェーデンは国家財政の財政難を招いてしまうが、この財政難の元凶の一端を担いでしまったのが彼女であった。しかし彼女は、無能ではなく、高い政治能力を有していた。平和を願い、カトリックとプロテスタントの融和を説き、キリスト教の安寧と言う高貴な理想を抱いた一己の自由主義者であった。また彼女なりの王権成立に努力した騎士道精神の持ち主であった。神聖ローマ帝国におけるスウェーデン領のレーエン関係の成立などがそれを現している。しかし、絶対主義化とプロテスタント主義を目指すスウェーデン政府との軋轢が彼女を苦しめたのである。スウェーデンの国益と、自由主義の狭間で揺れ動いた彼女は、最終的に己の意志を貫き、退位を決意したのであった。
[編集] 人柄と後世の評価
ヴォルテールがたびたび彼女を著作で扱い、「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである。新教徒は彼女を苦しめた。ルターを信じないかぎりすべての徳は無意味であるとさえ考えられる有様である。一個の自由思想家にすぎない女性の改宗を促すことは教皇にとって易々たる仕事であったに違いない」と賞賛している(『カール12世』より)。しかしフォンテーヌブローで家臣のモナルジテを殺させたことについては、「王位を賭して自身の哲学を実践しながら、この残忍かつ破廉恥な行為で、せっかくの哲学を台無しにしてしまった」と非難をしている(『ルイ14世の世紀』より)。
イギリスの歴史家ウェッジウッドは即位直後のクリスティーナを「名ばかりの人ではないにしろ、媚びへつらいに甘く、騙されやすかったが、強情でかつ知性をもった若人だった。あの高名な父の娘として、彼女は状況に対処する勇気を持ち、(彼女の老臣たちより)もっと大胆に、あっさりと、父の政策のセンチメンタルな墨守を放棄することができた」と評している。同国人のストリンドベリに、彼女に取材した戯曲がある。1933年にハリウッド女優グレタ・ガルボが演じた長編映画「女王クリスティナ」がある。
[編集] 備考
クリスティーナ女王は、父グスタフ・アドルフの古ゴート主義(ゴート起源説)に則り、「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」(Suecorum, Gothorum, Vandalomque reginam)と称されていたが、三十年戦争終結時に自ら放棄した。なお、フィンランド大公については、スウェーデン王と同義かつ同一な為、退位するまで兼ねていたと思われる。
[編集] 参考
- C・V・ウェッジウッド『三十年戦争』
- 下村寅太郎『女王クリスチナ』
[編集] 関連人物
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