ジャッキー吉川とブルーコメッツ
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ジャッキー吉川とブルーコメッツ(ジャッキーよしかわとブルーコメッツ、ブルーコメッツ)は、1960年代に一斉を風靡したグループ・サウンズのひとつ。1957年に結成されたロックコンボが母体。所属芸能事務所は渡辺プロダクション。略称「ブルコメ」
[編集] 略歴
尾藤イサオのバックバンドとして活動していた時期がある。ある時、尾藤のコンサートに尾藤と一緒に開催地に向かったが、尾藤が列車から降り損ね、開催が不可能になってしまった。観客に尾藤が来ていないことを説明した所、観客から「何か歌ってくれ」と求められたことから本格的なブルーコメッツ独自の活動が始まったとされている。
1966年に発売された「青い瞳(英語盤)」が10万枚、「青い瞳(日本語盤)」が50万枚のヒットになった。このヒットの頃にザ・ドリフターズや内田裕也らとともにビートルズの前座として出演。その際彼らはビートルズとは別のステージでメンバーの井上忠夫作曲のビートルズ讃歌「ウェルカム・ビートルズ」を歌った。1967年に発売された「ブルー・シャトウ」は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の日本レコード大賞で大賞を受賞した。
「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった1960年代当時、数多のグループ・サウンズの中で唯一NHKへの出演が許された。これは外見が短髪でスーツ姿と言うのが世間一般に評価されたことによるものであると思われる。もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。逆にコンサートなどでかつらを被って長髪を試した所ファンに不評だった。
1968年にはエド・サリヴァン・ショーに出演の為渡米→[1]。このときに演奏したのは琴の音をミックスした、いささか奇妙な「ブルー・シャトウ」であった。しかし、そこで見たアメリカのエンタテインメント界の奧深さに圧倒され、自らの活動を見直すこととなり「脱GS宣言」を出した。同年発売された歌謡曲シングル「さよならのあとで」が大ヒット。だがその後は、演歌調の歌を歌うかと思えば揺りもどしてGS調に戻ったかのような曲、また当時台頭していたバート・バカラック風の作品など、個々としては秀作が多いものの作品を通してグループとしての統一したイメージを作れないまま人気は失速し、1972年10月に実質上解散。「最後のGSの解散」とマスコミに報じられた。正確には解散ではなく、大幅なメンバーチェンジ(この時に井上・高橋・三原の3人が脱退)で1972年以降、何度かメンバーチェンジを繰り返し(その中で小田が脱退した)、時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称して活動している。その一方でGS時代のメンバーでも懐メロ番組に出演することが度々あったが、井上が2000年に死去したのを期に、2002年にGS時代のメンバーでも本格的に再結成し現在に至っている。
[編集] メンバー(1965年~1972年まで)
[編集] 外部リンク
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