内田裕也
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内田 裕也(うちだ ゆうや、本名:内田雄也、1939年11月17日 - )は日本のミュージシャン(ロックンローラー)、俳優である。
兵庫県西宮市出身。1959年に日劇「ウェスタン・カーニバル」にてデビュー。当時隆盛を誇っていたグループ・サウンズ・「内田裕也とタイガース」での活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活躍。以降、映画などへの出演・監督も行う。映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll。“ロッケンロール”、もしくは“ロケンロー”とも記述)
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[編集] 人物
初期はロカビリー歌手であり、大手芸能事務所である渡辺プロダクションに所属していた。1960年代半ばは寺内タケシとブルージーンズなどで歌手活動を行っており、映画「エレキの若大将」(1965年、主演・加山雄三)に端役で出演しているのは有名(司会者役)。
1960年代後半、ベンチャーズやビートルズの影響で日本にグループサウンズブームが起こると、自らもロック色を強めた活動に転換。またザ・タイガース(沢田研二などが所属)をスカウトし渡辺プロに所属させるなど、芸能界の裏面で有形無形の活動を行い、広く人脈を築く。
当時の音楽活動としてはフラワー・トラベリン・バンドが有名で、1960年代末から1970年代初めにかけて、日本のロックシーンをリードする存在の一人だった。ただし自虐ギャグ(自虐ネタ)にもなっているとおり、自らにはヒット曲と言えるものはない。知名度はありながら必ずしも経済的に恵まれた状況ではないと言われるが、それを特に隠さないことでも知られる。
以降、日本のロックの首領(ドン)と見なされる存在。安岡力也、ジョー山中、白竜、宇崎竜童などと徒党を組む。
「シェケナベイビー」(Shake it up Baby)という口癖を持つイメージがあるが、これはタレント・グッチ裕三が彼のものまねをする際に多用した架空の口癖。本人は嫌がってはいないものの、特に口癖にはしていない。ちなみにこのフレーズはビートルズがカバーしたことで有名な“ツイスト・アンド・シャウト”の一節から取られたものだと思われる。
オノ・ヨーコから「マリファナ吸って、酒飲んで、女とばっか。そんな事が本物のロックだと思ったら大間違いだ」と説教され、「あんたたちが俺たちに教えて来たことじゃないか」とクソーッと思うものの、それがきっかけで映画を作るようになったとインタビューで語っている。
1991年に東京都知事に立候補、選挙活動を行ったことがある。その際に政見放送で延々ロックソングをアカペラ(「Power To The People」、「コミック雑誌なんかいらない」など)を歌い、英語で主張を演説した。選挙公報は「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク! Love&Peace Tokyo」とだけ手書きでかかれた物だった。マスコミへのアピール時に政策をフリップ(放送用の手書きボード)に書き込む事を求められた際、「GOMISHUSHUSHA NO TAIGUU O KAIZEN SURU」(ゴミ収集者の待遇を改善する)と、所々綴りが誤記されたローマ字で政策を書いた。以上、数々の伝説的エピソードを構築する(彼は基本的に記述の際にはローマ字を多用する傾向がある。これは一説には漢字が苦手だからという話があるが、真偽は不明)。この模様は映画「魚からダイオキシン!」にて一部垣間見る事が出来る。
結果、無所属(政党推薦候補除く)ではトップの票を獲得。しかしメディアからは「売名出馬の泡沫候補」と批判されることもあった。
妻は女優の樹木希林(樹木とは新婚当初の2年間以外、30年以上にわたり別居状態。ファックスで連絡を取りあっている)。娘は元タレントの内田也哉子であり、娘婿が婿養子として家族となった本木雅弘。結婚時に娘に送ったFAXの内容は「ロックンロールよろしく」「ジョンレノンが死んだ時以来のショック」。
CHARと金子マリが在籍していたスモーキー・メディスンを自らが主催するイベントに誘ったとき、「出てもいいけど俺たちアンプ持ってねぇよ」と返答され、彼らの目前で樹木と沢田研二に電話をかけ「わかった。俺がアンプを買ってやる」と彼らに機材をプレゼントした。
SWITCH(ロッキンオン社)にて、本木も含む家族全員の記念写真が掲載される。孫の七五三を報じるワイドショーでは、裕也は不在だったものの一家の祝い事を撮影するジョー山中の姿が全国にオンエアされた。2005年12月には樹木から贈られた時計を空き巣に盗まれる被害に遭い、犯人に向かって「ヨロシク」と盗品を返すように訴えた。
1973年より、年越しロックイベントニューイヤー・ロック・フェスティバルを毎年開催。日本のみならず、2004年から上海、2005年よりソウルと現在では三カ国で同時開催されている。安岡力也、ジョー山中、桑名正博、シーナ&ザ・ロケッツ、宇崎竜童、白竜、本木雅弘などがほぼ毎年参加しているほか、ビートたけし、原田芳雄、沢田研二が準レビュラー。過去にはRCサクセション、アナーキー、ルースターズ、PANTA、BOØWY、スターリンなどが参加したこともある。
その他、ワンステップ・フェスティバルやワールドロック・フェスティバルを主催。ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどを来日させた。
短気な性格でも有名で、リハーサルで機材へクレームをつけるレイ・チャールズを殴ったり、ルー・リードに「日本人をナメるな」と啖呵を切ったり、「鏡に映った自分の顔が笑っていた」のが腹が立って鏡張りのホテルの部屋を破壊して拳を血まみれにするなど、エピソードには事欠かない。
海外アーティストのコンサートを主催する興業会社に押し入り暴れるなど、何度か警察ざたになるトラブルを起こしている。「義憤にかられてのこと」「酒に酔った勢い」といった理解ある見方も存在するものの、多くのトラブルが自作映画の公開などとほぼ同時期に起きているため、「一種の売名・宣伝では?」という声も少なからず存在する。
自作曲がない、音痴、暴力的、徒党を組みたがるなど批判の声は多いが、プロデューサー/イベンター/映画人として近年高く再評価されている。
[編集] 作品
[編集] シングル
- ひとりぼっちのジョニー(1963年)
- 破れたハートを売り物に(1963年)
- 悲しき悪魔(1963年)
- ブルージーンと皮ジャンパー(1964年)
- ラスベガス万才(1964年)
- スイムで行こう(1965年)
- きめてやる今夜/GONNA MAKE IT TONIGHT(1977年)
- いま、ボブ・ディランは何を考えているか/WHAT'S HAPPENING,MR.DYLAN?(1978年)
- 無礼講/SAKE,WOMEN & MY LIFE(1979年)
- 長いお別れ/THE LONG GOODBYE(1982年)
- 雨の殺人者/KILLER IN THE RAIN(1982年)
- アニー FOR A CHEEK TIME/ANNIE FOR A CHEEK TIME(1985年)
[編集] アルバム
- ロック・サーフィン・ホット・ロッド(尾藤イサオ+内田裕也)(1964年)
- レッツ・ゴー・モンキー(尾藤イサオ+内田裕也)(1965年)
- Challenge!(内田裕也とフラワーズ)(1969年)
- ロックンロール放送局(1973年)
- エキサイティング! ロックンロールパーティ(内田裕也と1815スーパーロックンロールバンド)(1973年)
- HOLLYWOOD(内田裕也 & ザ・ヴェンチャーズ)(1975年)
- ア・ドッグ・ランズ(1978年)
- さらば愛しき女よ(1981年)
- NO MORE COMICS(1985年)
[編集] 出演
[編集] 映画
- 不連続殺人事件(1977年)
- 嗚呼! おんなたち 猥歌(1981年)
- 水のないプール(1982年)
- 十階のモスキート(1983年)
- 戦場のメリークリスマス(1983年)
- コミック雑誌なんかいらない!(1986年)
- 座頭市(1989年)
- ブラック・レイン(1989年)
- 魚からダイオキシン!!(1992年)
- エロティックな関係(1992年)
- 烈火(2002年)
- 修羅のみち(2002年)
- 赤目四十八瀧心中未遂(2003年)
[編集] テレビドラマ
[編集] コンサート
- ザ・ビートルズ日本公演 (前座) (1966年)
- Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2003
[編集] 関連項目
- ブルー・ジーンズ
- 樹木希林
- オノ・ヨーコ
- 力也
- 本木雅弘
- 尾藤イサオ
- 沢田研二
- ザ・タイガース
- ビートたけし
- 山本寛斎
- 加藤和彦
- 宮沢りえ
- 横山やすし
- 桑名正博
- 日本語ロック論争
- フラワー・トラベリン・バンド
[編集] 外部リンク
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