スティーブン (イングランド王)
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スティーブン(Stephen, 1096年頃 - 1154年10月25日)は、フランス出身のブロワ朝唯一のイングランド王(在位1135年 - 1154年)。王の治世は収まらず、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれた。
スティーブンは、フランスの貴族、ブロワ伯エティエンヌと、イングランド王ウィリアム1世(征服王)の娘アデラの間に生まれた。フランスでの名前はエティエンヌ(Etienne)である。1125年、ブローニュ伯ユスタシュ3世の娘マティルド(英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した。
母方の伯父であるイングランド王ヘンリー1世(ウィリアム1世の子)が1135年に死ぬと、ヘンリーの娘であるアンジュー伯夫人マティルダ(通称「女帝モード」)が王位継承者に指名された。スティーブンは女王を否定するゲルマン慣習法であるサリカ法を楯に、家臣を率いて所領のフランスからロンドンに入ると、ロンドン市民と大司教の推戴を受けてイングランド王に即位した。
はじめ安定するかに見えた治世は、モード派の巻き返しによって次第に混乱していった。1141年、スティーブンはモード派のグロスター伯ロバートとの戦いに敗れて捕虜となったが、モード派もそれ以上の決定的な勝利を得ることはなく、スティーブンはその年のうちに釈放されて王位を保ち、両者は長い内戦を戦うようになる。
厭戦気分が漂い始めた1153年に転機が訪れ、長男ブローニュ伯ウスタシュ4世(英名ユースタス)を失ったスティーブンは、モード派との話し合いに応じた。モードの息子アンジュー伯アンリとの間でウォーリングフォードで和平協定を結び、自身の終身王位の承認と引き換えに(ウスタシュの弟ギヨーム(ウィリアム)がいたにもかかわらず)アンリを養子に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。
1154年10月25日にスティーブンがドーバーで死去したことから、協定のとおりアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、ここにプランタジネット朝が成立した。
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