セキテイリュウオー
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1989年4月30日 |
父 | トウショウボーイ |
母 | レインボーローズ |
生産 | 千葉飯田牧場日高分場 |
生国 | 日本(北海道門別町) |
馬主 | (株)新元観光 |
調教師 | 藤原敏文(美浦) |
競走成績 | 26戦5勝 |
獲得賞金 | 3億3620万円 |
セキテイリュウオーは日本の競走馬である。主な勝鞍は1994年東京新聞杯(GIII)、1993年金杯(東)(GIII)、若葉ステークスで、天皇賞(秋)では2年連続して2着に入線するなどマイルから2000mを中心に活躍した。全成績は26戦で(5-7-1-13)となる。鞍上はデビューから4戦を蛯沢誠治が、宝塚記念1戦だけ南井克巳が、残り21戦は当時藤原厩舎の所属騎手であった田中勝春が跨った。また、生涯成績で二桁着順が一回もなかった。
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[編集] 略歴
1989年(平成元年)4月30日、北海道門別にある千葉飯田牧場にてトウショウボーイとレインボーローズの間に鹿毛の牡馬として生まれる。生まれた時の生産者の話では「バランスは取れて品が良いけど体質は弱かった」と述壊し、育成が他馬に比べて遅れたと言われている。 その後は育成牧場に移動し、体質の弱さも改善され美浦の藤原敏文厩舎に入厩しデビューを迎える事となる。
デビューは1991年12月。5回中山2日の新馬戦で2着。同開催の最終8日で初勝利を挙げ、3歳を終える事となる。
明け4歳は1992年1月1回の500万特別若竹賞に出走するが6着に始まり、翌東京開催の初日500万特別セントポーリア賞に出走し、それまでの先行差しから一転し「逃げ」の戦法を採ったが3着に敗れた。ちなみにこのレースの勝ち馬は、後のエプソムカップ馬サクラセカイオーで、約3馬身離された3着という内容だった。 陣営は此処で蛯沢騎手から所属騎手の田中勝春騎手に乗り替えて、同開催の最終日500万特別春菜賞に挑むが、先のセントポーリア賞で2着のタイガーエースに1/2馬身離されるという結果に終わった。このままでは賞金獲得額不足によって、皐月賞で除外になるという問題もあり、次走は格上挑戦で皐月賞トライアルの若葉ステークスに出走する事となる。
この年の若葉ステークスは出走が9頭と比較的少なかったが、出走するメンバーは共同通信杯4歳ステークスの勝ち馬で1番人気のエアジョーダン、後に皐月賞2着、NHK杯優勝、日本ダービー2番人気に支持されたナリタタイセイ、日本ダービーで3着となるマヤノペトリュースなど錚々たるメンバーで、離れた単勝4番人気に過ぎなかった(エアジョーダンは単勝2.1倍)が、ここで激走し、同レースを制し皐月賞への優先出走権を獲得した。ちなみに、ナリタタイセイは3着、エアジョーダンは5着、マヤノペトリュースは7着だった。
そして皐月賞。この年は此処まで“栗毛の超特急”ミホノブルボンがクラシックの最有力馬とされていた。ミホノブルボンは雨の中行われた前走のスプリングステークスを重馬場ながら7馬身引き離して勝ち、観衆の興味はミホノブルボンがどれだけ強い勝ち方をするかであった。一方セキテイリュウオーは若葉ステークスの好走(馬場は重だった)が評価されたのかミホノブルボン、同じく皐月賞トライアルの弥生賞馬アサカリジェントに次ぐ3番人気の支持を得ていたものの6着に終わった。
その後は皐月賞から日本ダービーへ直行するローテーションを組んだが9着に終わり、春のクラシックシーズンは終了。レース後、骨膜炎が判明し長期休養を余儀なくされる。秋は鉄砲で菊花賞へ挑む事になった。18頭中13番人気にであったがライスシャワーの6着となった。その後は中山のディセンバーステークスでフジヤマケンザンの2着に入り4歳を終える。
[編集] 古馬になって
5歳の緒戦は1993年1回中山の金杯。53kgというハンデキャップにも恵まれて、カリブソングをアタマ差抑え重賞初制覇を飾った。
その後は中距離のレースを中心に走り目黒記念4着、中山記念5着、エイプリルステークス2着、新潟大賞典4着となる。6月には阪神競馬場で行われた宝塚記念に南井克巳騎手で出走するがメジロマックイーンの4着に敗れた。
[編集] 第108回天皇賞
5歳秋の緒戦は天皇賞(秋)の前哨戦とも言える東京競馬場の毎日王冠。この時はシンコウラブリイ、ヤマニンゼファーが人気を集めたが2着に入る。
天皇賞(秋)はライスシャワーやヤマニンゼファーといった有力馬が秋緒戦で敗れたこと、シンコウラブリイが外国産馬で出走権がなかったこと、何より直前にメジロマックイーンが故障で引退となったことで混戦模様となった。
レースは逃げ馬ツインターボとロンシャンボーイがハイペースで引っ張る展開となり、セキテイリュウオーは中団よりやや前に待機し、4コーナーの坂下から一気にスパートをかける。残り300mからゴール前までヤマニンゼファーと壮絶な叩き合いを見せたがハナ差敗れてしまった。ちなみにこのレースの上がり3ハロンはヤマニンゼファーが36.4秒に対し、セキテイリュウオーはただ1頭だけ35秒台(35.9秒)をマークし3ハロンだけで0.5秒縮めている。また、この勝負を名勝負と見ているファンもいる。
田中勝春の初GI制覇は1992年5月17日東京競馬場で開催の第42回安田記念であったが、その時騎乗していた馬は他ならぬヤマニンゼファーあった。そのヤマニンゼファーとは5歳時にコンビを組んでいたが、ヤマニンゼファーの6歳緒戦がマイラーズカップとなり、その時の鞍上には田原成貴騎手が代打で乗り替わった。その後ゼファーが中山記念に出走することなり、セキテイリュウオーとバッティングすることとなったが、田中は自厩舎所属馬のセキテイリュウオーに騎乗することを選んだ。ヤマニンゼファーは中山記念は田原、京王杯スプリングカップ以降は柴田善臣が騎乗し、以後田中が騎乗することはなかった。
[編集] 再び天皇賞へ
天皇賞の後、4歳時に2着とした中山のディセンバーステークスを勝ったが、この年の有馬記念ではトウカイテイオーの奇跡の勝利の前に7着に終わり5歳のシーズンを終える。
6歳は春の目標を安田記念とし、緒戦は東京新聞杯を選んで59kgの斤量を背負ったものの、1番人気のケントニーオー(54kg)を1/2馬身差し切った。しかしその後、骨膜炎を発症し長期休養を余儀なくされ、春シーズンを全休する事となる。
そして秋緒戦は1年前同様に東京競馬場の毎日王冠を選んだが、休養明けな上にレコード決着だったこともありネーハイシーザーの8着だった。しかし、セキテイリュウオーの走破タイムは前年を上回っている。
そして1年前と同じ舞台に戻ってきたが、人気は芦毛の怪物ビワハヤヒデ、前年のダービー馬ウイニングチケット、レコード馬ネーハイシーザーの順番で、前走8着のセキテイリュウオーは8番人気と人気を落としていた。
しかしビワハヤヒデがレース中に故障したこともあり、レースはネーハイシーザーの2着で、2年連続天皇賞(秋)2着となった。
[編集] 骨膜炎との闘い
4歳時より度々起こっている骨膜炎だが、ここへ来て再発してしまう事となる。懸命な治療によって7歳夏中京競馬場の高松宮杯(当時GII)で復帰したが、このレースを7着とした後また骨膜炎が発症する。
半年近く休養の後、復帰したのは8歳になってからの東京新聞杯で60kgの斤量を背負わされ6着に破れ、翌月の中山記念を9着として競走生活を終える。
[編集] 引退後
種付け頭数
- 初年度25頭
- 2年目36頭
- 3年目12頭
今の所、主だった産駒は残していない。現在は日高町のクラウンホースメイトで繋養されている。
[編集] エピソード
- 主戦騎手の田中勝春はヤマニンゼファーとの叩き合いの天皇賞で、ゴールの瞬間「負けた」と分かったとのこと。
[編集] 血統表
セキテイリュウオーの血統 プリンスリーギフト系(ナスルーラ系)/Hyperion4.5×5=12.50% | |||
父
トウショウボーイ 1973 鹿毛 |
*テスコボーイ Tesco Boy 1963 黒鹿毛 |
Princely Gift | Nasrullah |
Blue Gem | |||
Suncourt | Hyperion | ||
Inquisition | |||
*ソシアルバターフライ Social Butterfly 1957 鹿毛 |
Your Host | Alibhai | |
Boudoir | |||
Wisteria | Easton | ||
Blue Cyprus | |||
母
レインボーローズ 1979 栗毛 |
*ファーストファミリー First Family 1962 栗毛 |
First Landing | Turn-to |
Hildene | |||
Somethingroyal | Princequillo | ||
Imperatrice | |||
*プティットアミ Petite Amie 1961 黒鹿毛 |
Prince Taj | Prince Bio | |
Malindi | |||
Turkhan Law | Turkhan | ||
Road Law F-No.19 |
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