ダリオ・フォ
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ダリオ・フォ(Dario Fo, 1926年3月24日 - )は、イタリアの劇作家・演出家・俳優・舞台美術家。特に風刺喜劇に於いて多くのヒット作をものにしている。
ヴァレーゼ県レッジューノ生まれ。1940年ミラノに移住し、ブレラ美術館のアカデミーで建築学を学ぶ。レジスタンスに身を投じ、サロ政権に捕虜として捕らわれながら脱出した経験もある。
1951年に女優のフランカ・ラーメと出会い(1954年に入籍)、同じ年にRAIのラジオドラマに出演したのを切っ掛けに以後の俳優のキャリアをスタートする。1953年に時の政権と教会を風刺した"Il dito nell'occhio"を発表、興行的には成功するものの興行主とはトラブルを起こし不遇を囲う。1955年にローマの映画プロダクションに移り、ディノ・デ・ラウレンティス氏を始めとした多くの映画作品の脚本を手がける。1959年にミラノに戻ってダリオ・フォ&フランカ・ラーメ劇場を旗揚げ、以後の活動の拠点とする。
1960年に"Gli arcangeli non giocano a flipper"が大ヒット、この成功に気をよくして翌1961年スウェーデンとポーランドへ初の海外巡業を行う。1962年にはRAIのクイズ番組に出演し政治家とマフィアの癒着を番組中で指摘したところ、脅迫されて番組を降板。以後15年にわたってRAIから干されることになった。またイタリア共産党のイベントを手がけていたことから右翼の襲撃も受ける。1967年にはベトナム戦争とケネディ大統領暗殺事件をめぐる言動でアメリカ合衆国から入国を拒否された。その一方でプラハの春を支持したことから東側からも興行を拒否される憂き目に遭う。1968年にはイタリア共産党との間で齟齬が起き、ラーメが共産党を脱党する。1969年に「滑稽なミステリー」(Mistero Buffo)を発表、中世喜劇のモノローグを巧く時事風刺に絡めたことから大好評を得、多くの後進に影響を与えた。
1970年代に入ってもフォとラーメは風刺作品を発表し続け、パレスチナ解放機構を支持してメンバーを舞台俳優に起用したり、チリのサルバドール・アジェンデ政権を打倒したクーデターの抗議デモに参加して逮捕されている。1975年に訪中、翌年には久々にRAIの番組に出演しバチカンの不興を買う。1978年にイーゴリ・ストラヴィンスキーのオペラを翻案し、「戦士の物語」(La storia di un soldato)を発表、成功を収める。
1981年にニューヨークのイタリア演劇フェスティバルに招かれ、その後もしばしば訪米。1989年には天安門事件に抗議する一方でコメディ・フランセーズでの上演を果たす。1997年には多年の風刺喜劇に対する実績を評されてノーベル文学賞を受賞した。2006年にはミラノ市長選にイタリア共産党再建派の支持を得て出馬したものの落選している。
[編集] 外部リンク
- Official website of Dario Fo's candidacy as Mayor of Milan
- Nobel laureate page
- Biography
- Peace Mom by Dario Fo (performed in London, in December 2005)
- Restart by Komedy Kollective
カテゴリ: ノーベル文学賞受賞者 | イタリアの劇作家 | 1926年生