チェーザレ・ボルジア
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チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia, 1475年9月13日または14日 - 1507年3月12日)は、イタリアルネサンス期の軍人・政治家。
ローマ教皇アレクサンデル6世の息子として当初枢機卿となったが後に俗界に戻り、ロマーニャ公爵・教皇軍総司令官となった。イタリアは小国の分裂状態にあり、アヴィニョン捕囚以後は教皇領内にも多くの僭主(シニョリーア)が勢力を持っていたが、軍を率いて僭主を攻め、教皇領を回復して行った。冷酷な政治家であり、多くの政敵を殺害するのを厭わなかった。短気で自己の抑制が苦手だったという評価がある反面、政治的・軍事的才能を発揮し、マキャヴェッリによって高く評価されている。
父であるアレクサンデル6世との関係についてはいくつか説がある。チェーザレはたびたび父に背いたが、父の権威と財政的援助がもっとも大きな後ろ盾であったことは確かである。
なお、日本では慣習的に「ボルジア」の表記が用いられているが、実際には「ボルジャ」の表記の方がよりイタリア語の原音に近い。
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[編集] 生涯
- 1475年 ロドリーゴ・ボルジア(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人ヴァノッツァ・カタネイの間に生まれた庶子。父は聖職であるため、表向きは甥とされた。ちなみに名の Cesare(チェーザレ) はカエサル(シーザー)のイタリア読みである。
- 1492年 父がコンクラーヴェで教皇に選出されると、チェーザレも17歳でヴァレンシア大司教、枢機卿になる。
- 1497年 家督を継いでいた実弟ホアンが暗殺される。
- 1498年 枢機卿を返上、僧職を捨てる。フランス国内のヴァランスの公爵位を得、聖ミカエル宗教騎士団に列せられる。
- 1499年 スペイン北部のナバラ王国の王女シャルロット・ダルブレと結婚。教皇軍を率いてフランス軍と共にスフォルツァ家の支配するミラノを攻める。イル・モーロは逃走。
- 1500年 教皇軍総司令官(ゴンファロニエーレ)になる。以後、教皇軍を率いて教皇領を回復してゆく。
- 1500年 ナポリ王子アルフォンソ(妹ルクレツィアの2番目の夫)と従兄のボルジア枢機卿が暗殺される。いずれの黒幕もチェーザレと噂される。
- 1501年 ロマーニャ公爵となる。
- 1502年 勢力拡大をおそれたオルシーニ家ら反チェーザレ勢力が集結。危機に陥ったチェーザレだが相手勢力に和解を持ちかけ、集まったところを捕らえ、処刑する。
- 1503年8月 父の教皇アレクサンデル6世がマラリアで急死(一説には政敵を倒すために用意した毒をチェーザレとともに誤って飲んだともいうが、根拠は薄い)。自身も病床にあったため適切な対応が取れず、急速にその権力は失墜。政敵であった教皇ユリウス2世のため捕らえられる。
- 1506年 脱獄し、妻の実家ナバラ王国に亡命する。
- 1507年 スペイン、フランス国境付近のナバラで討死。31歳であった。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、マキャヴェッリとの親交もよく知られている。
- レオナルドは1502年8月から8か月ほどの間、建築技術監督としてチェーザレの軍と行動を共にした。
- また、フィレンツェ共和国から派遣され、チェーザレの行動をつぶさに見ていたマキァヴェッリは、チェーザレの死後、外国に蹂躙されるイタリアの回復を願い、統治者の理想像をフィレンツェのメディチ家に献言するため『君主論』を執筆した。マキァヴェッリは、『君主論』第7でチェーザレほど新たに君主になった者にとってよい教訓はない、と高く評価している。また第26では、イタリアにとって神から下された光明のような人物であったと語っている。
ボルジア家といえば陰謀渦巻く一家で、政敵を次々に毒殺した(カンタレラと呼ばれている毒を開発した)、チェーザレは妹のルクレツィアとは近親姦であったなどの言説がしばしば行われるが、真偽のほどは不明である。
[編集] チェーザレが征服した地
- 1499年11月 イーモラ(旧主:カテリーナ・スフォルツァ)
- 1500年 1月 フォルリ(カテリーナ・スフォルツァ)
- 1500年10月 ペーザロ(スフォルツァ家)ジョヴァンニ・スフォルツァ=ルクレツィアの最初の夫
- 1500年10月 リミニ(マラテスタ家)
- 1501年 4月 ファエンツァ(マンフレディ家)
- 1501年 9月 ピオンビーノ(アッピアーノ)
- 1502年 1月 ウルビーノ(グイドバルド・モンテフェルトロ)
- 1502年 1月 カメリーノ(ヴァラニ)
- 1502年12月 シニガリア(ロヴェリ)
- 1503年 1月 チッタ・ディ・カステッロ(ヴィテッリ)
- 1503年 1月 ペルージャ(バリオニ)
- 1503年 1月 シエナ共和国(ペトルッチ) ペトルッチを追放し、共和国は存続
- (マキャヴェッリは、『君主論』でも分かるようにチェーザレをイタリア統一への希望と見ていたようである。フランス軍を背景に、教皇領の回復では成功したが、チェーザレ当人がイタリア統一の構想をどこまで考えていたかは定かではない)