チプリアーノ・デ・ローレ
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チプリアーノ・デ・ローレ Cypriano de Rore または Cipriano de Rore (1515年 or 1516年~1565年9月) ネーデルラント出身の作曲家・音楽教師。ジョスカン以降の世代でイタリアに渡ったフランドル楽派の作曲家の代表的人物。後期ルネサンス音楽様式の発展に力があり、16世紀中葉のマドリガーレ作曲家として最も傑出した存在であった。
[編集] 生涯
現代の調査でローレの出生地はロンセ(フラマン語で Ronse 、ワロン語でルネー Renaix )であることが判明した。ロンセはフランドルの、ワロン語使用圏とフラマン語使用圏の間の、言語上の境界線の真上に位置する都市である。
ローレの早期教育についてはほとんど何も知られていないが、最近の研究の結果、1533年にメディチ家に嫁いでナポリに行ったパルマ大公妃マルガレータとのつながりが浮上している。マルガレータに同行して、イタリアで何らかの教育を受けたのかもしれないし、あるいはアントウェルペンで早期の音楽教育を受けたのかもしれない。長年にわたって、ローレはヴェネツィアでヴィラールトに師事して、サン・マルコ寺院で歌っていたといわれてきたが、このことを補強する証拠はほとんどない。とはいえ、それほどの若さで聖マルコ寺院の聖歌隊員だったならば、多くの史料が残っているはずがない。1542年からおそらく1546年までブレーシャに滞在し、その間に作曲家としての名声を得るようになる。出版したマドリガーレ集1巻とモテット集2巻は、いずれも高い評価を受けた。
1547年にフェラーラでエルコレ・デステ2世の宮廷楽長に任命される。同地での門人のひとりがジャッケス・デ・ウェルトであり、ウェルトは後にルッツァスコ・ルッツァスキのように、後期イタリア・ルネサンス音楽における最も急進的な音楽家の中の指導的存在となった。
エルコレ公が1559年に死去すると、ローレは後継者アルフォンソに仕官を申し出るが拒絶され、フランチェスコ・ダッラ・ヴィオラに交替させられた。1560年から1563年までブリュッセルでパルマ大公妃マルガレータに、またパルマでその夫オッタヴィオ・ファルネーゼに仕えた。1562年にサン・マルコ寺院の楽長に任命されるが、1564年に辞職してパルマに戻り、その地で他界した。
[編集] 作品とその影響力
初期のマドリガーレの最も影響力ある作曲家として、ローレは120曲以上のマドリガーレを作曲したほか、約80曲のモテット、3曲のミサ曲、受難曲、詩篇唱、世俗語のモテットと、シャンソンを遺した。