チャーリー・マニエル
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チャーリー・マニエル(Charles Fuqua Manuel、1944年1月4日-)は、米国ウェストバージニア州出身。昭和後期(1970年代後半-1980年代前半)のプロ野球選手(外野手)。2005年からはフィラデルフィア・フィリーズの監督。
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[編集] 来歴・人物
- 1969年、ミネソタ・ツインズでメジャー初昇格。ロサンゼルス・ドジャースを経て、1976年ヤクルトスワローズに入団。
- 1978年には打率.312、39本塁打、107打点をあげてヤクルトのリーグ初優勝・日本一に貢献する。しかしその年のオフ、守備面での不安に加え、ヤクルトに左腕投手が不足していた事情もあり、神部年男投手との交換トレードで近鉄バファローズに移籍する。
- 1979年は6月9日のロッテオリオンズ戦で八木沢荘六から顔面に死球を受けて顎を複雑骨折するというアクシデントがあったが、わずか14試合の欠場で復帰。その年、97試合出場だったものの、37本塁打で本塁打王を獲得し、近鉄のリーグ初優勝に貢献。MVPにも輝いた。欠場期間、首位を走っていた近鉄の調子が急下降し、前期優勝を逃す危機となったが、辛うじて踏みとどまり前期最終戦でようやく前期優勝を決めた。西本幸雄監督は「マニエルおじさんが残してくれた貯金を皆で使い果たしてしまうんじゃないかと心配していた」とコメントした。欠場後の失速とこの発言により奮起し、チームと監督の期待に応えるべく強行出場を続けたのだった。復帰した際、球団は顎への防禦用のフェイスマスクつき特殊ヘルメットを提供した。
- この死球に関して、マニエルは「ロッテのベンチから『ぶっつけてしまえ』という声が聞こえた。あれは故意だ」と発言している。ロッテ側は否定しているが、マニエルは納得せず、後日八木沢とマニエルの「手打ち」が行われても、マニエルは決して八木沢と握手しようとはしなかった。
- 翌1980年は打率.325、48本塁打、129打点で本塁打・打点の2冠を獲得、チームをリーグ連覇に導いた。1981年にヤクルトに復帰したものの同年限りで退団して帰国した。
- 1994年クリーブランド・インディアンス打撃コーチに就任すると日本流の早出特打ちを行うなど打線の強化を進め、翌1995年にはワールドシリーズに導いた。この指導が認められて2000年に監督に昇格。2001年にはアメリカン・リーグ中地区優勝を果たしたが、翌2002年に成績不振を理由にシーズン途中で解任された。
- 2003年にフィラデルフィア・フィリーズGM特別補佐に就任後、2005年からは監督としてチームの指揮をとっている。
- 過去も現在も数多くの外国人が来日し、その中でも史上最強助っ人と称されるのが1985年の日本一、後に三冠王も獲得した元阪神のランディ・バースを挙げる人間は一番多いかもしれないが、一方で優勝経験の無い2球団を主力打者として渡り歩き、優勝をもたらしたマニエルを挙げる人間も少なくない。
- 並外れたパワーと興奮しやすい性格から「赤鬼」の異名を持つ。(後に同じタイプのバッターであるボブ・ホーナーもこう呼ばれた。)
- 上述したように、打撃面では優れた成績を残していたが守備・走塁に難が多かった。そのため当時ヤクルト監督だった広岡達朗からは「打つしかできない選手」などと酷評され、マニエルも池井優のインタビュー本の中で広岡の人間性を批判(その一方で近鉄時代の監督だった西本を絶賛)していたが、後に自身が大リーグで監督を務めるようになってからは「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」とその意見を変えている。
[編集] 成績
- 米国:実働6年 242試合 384打数76安打 4本塁打 43打点 1盗塁 打率.198
- 日本時代の年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976年 | ヤクルト | 84 | 263 | 28 | 64 | 5 | 0 | 11 | 32 | 1 | 0 | 1 | 32 | 54 | .243 |
1977年 | ヤクルト | 114 | 358 | 70 | 113 | 8 | 0 | 42 | 97 | 3 | 0 | 5 | 56 | 60 | .316(10) |
1978年 | ヤクルト | 127 | 468 | 85 | 146 | 12 | 2 | 39 | 103 | 1 | 1 | 5 | 48 | 80 | .312(11) |
1979年 | 近鉄 | 97 | 333 | 69 | 108 | 18 | 0 | 37 | 94 | 0 | 0 | 3 | 67 | 62 | .324(6) |
1980年 | 近鉄 | 118 | 459 | 88 | 149 | 16 | 0 | 48 | 129 | 0 | 0 | 2 | 59 | 66 | .325(5) |
1981年 | ヤクルト | 81 | 246 | 28 | 64 | 10 | 0 | 12 | 36 | 1 | 0 | 2 | 32 | 42 | .260 |
通算成績 | --- | 621 | 2127 | 368 | 644 | 69 | 2 | 189 | 491 | 6 | 1 | 18 | 294 | 364 | .303 |
- 表中の太字はリーグ最多数字
[編集] タイトル・表彰
[編集] 来日の経緯
マニエルは、1976年にドジャースから荒川博監督のヤクルト(1976年5月13日から荒川に替わり広岡が就任)に入団しているが、以下のような経緯が存在しているといわれている。
当時のピーター・オマリーオーナー(ドジャースの創設者ウォルター・オマリー元オーナーの長男)が、ジョー・ペピトーンがヤクルトに入団しても数々のトラブルを起こしたことにより、ヤクルトはもちろん日本のプロ野球ファン全体がメジャーリーガー出身の外国人選手を排撃しようという空気が漂った結果、日米関係が悪化するのを懸念していた。懸念を解消するために自軍からまじめで、かつ活躍できる選手をヤクルトに派遣しようと決意し、指名されたからだといわれている。