広岡達朗
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広岡 達朗(ひろおか たつろう、1932年2月9日 - )は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ、ヤクルトスワローズ、西武ライオンズのコーチ、監督を歴任した。最下位球団だったヤクルト、黎明期の西武をリーグ優勝・日本一に導いた名将。その後は千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーを経て、現在は野球評論家。愛称は「ヒロさん」。あるいは単に「ヒロ」。また、野村克也や森祇晶が「狸」と呼ばれるのに対して、広岡は「狐」とも呼ばれる。
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[編集] 来歴・人物
広島県立呉三津田高等学校を卒業後、早稲田大学教育学部へ進学。六大学リーグのスタープレーヤーとして鳴らし1954年、水原茂監督率いる読売ジャイアンツに入団。背番号は2。1年目は打率.314、15本塁打、67打点をマークして新人王を獲得、以後もチームの正遊撃手として、千葉茂・別所毅彦・与那嶺要・森昌彦・藤田元司らと共に、ジャイアンツ第2次黄金時代を築いた。打撃成績は1年目をピークに年々下降していったが、守備においては強肩巧守の名ショートとして知られ、阪神タイガースの吉田義男と並びセ・リーグを代表する遊撃手として活躍。しかし、水原監督の後を継いだ川上哲治監督と対立し、1966年限りで現役を引退した。
1970年、後に親交を深める根本陸夫監督に請われ、関根潤三・小森光生らと共に広島東洋カープの内野守備コーチに就任。熱血指導で山本浩二、衣笠祥雄、三村敏之らを鍛え、後の赤ヘル黄金時代の礎を築いた。1971年限りで退任。1974年、早稲田大学の先輩である荒川博監督から、ヤクルトスワローズのヘッドコーチ就任を要請される。1976年5月、荒川監督の休養に伴い監督に昇格。1977年にはチーム初となるシーズン2位に導く。翌1978年には、球団創設29年目にして悲願のセ・リーグ初優勝をもたらし、同年の日本シリーズでも黄金時代と呼ばれた阪急ブレーブスを破り、日本一の栄冠に輝いた。しかし1979年は開幕から成績が低迷し、シーズン途中で監督を辞任。後任は武上四郎コーチが昇格した(武上新監督が就任するまでは佐藤孝夫コーチが代行)。辞任の理由は、フロントが森昌彦ヘッドコーチを成績不振の責任を取らせる形で広岡に無断で解任し、それに対して反発したためと見られている。
その後野球評論家を経て、1982年、根本陸夫監督の後任として球団創立4年目の西武ライオンズの監督に就任。同年チームを前期優勝、プレーオフで後期優勝の日本ハムファイターズを下しパ・リーグ初優勝を導くと、近藤貞雄監督率いる中日ドラゴンズを寄せ付けず4勝2敗で日本一となる。翌1983年は2位の阪急ブレーブスに17ゲームという大差を付けてリーグを制覇し、後に「史上最高の日本シリーズ」と謳われる名勝負となった藤田元司監督率いる巨人との決戦も第7戦を3-2という大接戦を制し、4勝3敗で2年連続日本一に導く。1985年にもリーグ優勝したものの、日本シリーズで吉田義男監督率いる阪神タイガースに2勝4敗で敗れて日本一を逃し、「日本シリーズで敗北したら辞任する」という信条に基づいて、同年オフに監督辞任した。ただこの年の辞任は痛風を患っていたことも重なっていたようである。その後の西武は、石毛宏典、秋山幸二、工藤公康、伊東勤、渡辺久信、辻発彦など、広岡に鍛えられて成長した選手が活躍し、森祇晶監督と共に西武黄金期を支えることになる。退団後は阪神監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われ、特別コーチを3年間務める。ここでは伸び悩んでいた仲田幸司を再生させている。
1995年、低迷が続く千葉ロッテマリーンズの重光武雄オーナーに誘われ日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)に就任。同時にメジャーリーグで監督をしていたボビー・バレンタインを招聘する。しかし野球観の相違から確執を起こし、就任1年目でチームを2位に導いた功績を無視して同年限りで解任。多くのロッテファンから“暴挙”と非難された。その後、後任に大学の後輩である江尻亮ヘッドコーチを擁立、1996年のドラフトでは無名だった小坂誠の指名を主導するなど辣腕を振るったが、伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンら主力選手とも確執を起こし、2年でGMを解任された。この時、江尻も共に監督を辞任している。
現在はアール・エフ・ラジオ日本野球解説者の傍ら、巨人軍OB会副会長を務めている。現会長の長嶋茂雄が脳梗塞で倒れた2004年以降は、事実上のOB会長として活動している。ただし、正式な会長には就任していない(これまでも、別所毅彦元会長が逝去した時や藤田元司前会長が辞任した時に会長候補として名前が挙がっていたが、就任は実現しなかった)。
高齢者の監督・コーチ業には否定的な立場を取っているため、近年は正式な指導者として腕を振るうことはなくなったが、オフシーズンにはしばしば巨人の臨時コーチを買って出ている。2007年には母校・早稲田大学野球部の練習に現れ、斎藤佑樹にフィールディング指導を行っていた。
1992年、野球殿堂入り。父は旧日本海軍の少佐で、駆逐艦の機関長であった。兄・富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である。
[編集] 評価
遊撃手として巨人の一時代を担ったその守備力もさることながら、弱小球団であったヤクルト・西武をわずかな期間で日本一のチームにした指導者としての手腕は現在でも特に評価が高く、早稲田大学の後輩である近藤昭仁、中村勝広、八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉、大杉勝男、田淵幸一といった球界関係者だけでなく、マスコミ関係者にも多くのシンパを持つ。しかし、歯に衣着せない毒舌家であるためか敵も多く、森祇晶、豊田泰光、江夏豊、東尾修、大久保博元らからは公然とその人間性を批判されている(広岡の発言の数々については、後の項で述べる)。
過去に確執のあった川上哲治は、近年の自著『遺書』の中で広岡を「ひとことでいえば意志の人だ。頭がよく、ひらめきもある。特に先を読みながら考えを組み立て、実行していくタイプの野球人で、コーチであれ監督であれ、ゼネラルマネージャーであれ、どんな立場に就いても自分をフルに発揮する」と高く評価している。しかしその意志の強さが、相手から傲慢と取られがちな厳しい発言として表れ、多くの敵を作ってしまっているのもまた事実であろう。
事実上の巨人OB会会長となった後の広岡は「これからはOB会が巨人軍の再建のため遠慮なく発言する」と宣言し、球団経営にも積極的に介入するようになった。その結果、生え抜きの若手選手が台頭し始め、チームに体質改善の兆しが見られるようになってきた。しかし一方、「自分の言う事が聞けぬものは自分からやめてもらうしかない」とベテランに圧力をかけ、清原和博や桑田真澄の退団騒動といったトラブルも引き起こしてしまっている。
[編集] 管理野球
監督としての広岡は、徹底した管理野球で有名である。自身の経験から得た野球理論に基づき、走・攻・守とバランスよくこなせる選手の育成と、厳しい練習によるチームプレーの浸透を目標としていた。軍港として有名な呉市の出身である事から『海軍式野球』の異名も取っていた(『私の海軍式野球』という題名の著書もある)。
1982年に西武監督に就任した際、専門家を呼んで「肉は腐った食物です。牛乳も農薬がかかった牧草を食べた牛からしぼり取るものですから、毒を飲んでいるようなものです」といった内容の講演を行い、ヤクルト監督時代から自ら進めていた玄米食・自然食品摂取をチームに強要、肉の摂取量を制限するなど選手の私生活にも介入した。それについて日本ハムファイターズの大沢啓二監督が「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負ける訳にはいかない」と挑発し、話題になった(ちなみに同年のプレーオフで西武は、日本ハムに3勝1敗で勝利している)。
しかし、選手でない自分自身については肉料理の制限を行っておらず、マスコミ等から非難を浴びた。また、西武監督最後の年には痛風を病んでいることが明らかになり、チーム内の選手からも揶揄された(痛風は肉を多く食べるとかかる「贅沢病」と言われることもあるため)。江夏豊は後年、自著に「広岡さん自身が制限を守ってないことを指摘したら、私は2軍に落とされた」「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言ってることとやってることが違うのが大いに疑問だった」と記している。
広岡はこれらについて「監督と選手が違うのは当たり前」と著書で述べており、意に介していない。この趣旨の発言に対し、経済評論家の佐高信は「上司たる人物として失格である」と強く非難、同時に広岡を上司としての理想としている人間に対して警告を発している。
だが一方、それまで肉食に偏りがちであったスポーツ選手の食生活に「栄養のバランス」という概念を持ち込んだ功績は高く評価されている。2007年現在、球界最高齢の現役選手である工藤公康(横浜)は、西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てている(「工藤公康 粗食は最強の体をつくる!」、三笠書房、2006年他)。またヤクルト監督時代には、それまで重量挙げなどのごく一部のスポーツ選手以外は行っていなかった本格的なウェイトトレーニングを体系立ててチームに導入しており、野球の技術論のみならず、選手の体作りに関しても先見の明があったことがうかがえる。
[編集] 発言など
[編集] 巨人関連
- 「日本のプロ野球の主導権はすべてナベツネさんだからね。この人の頭の構造を変えないと」
- 「自分が巨人のGMなら今の半分のお金で勝てますよ。人は育てれば育つんです」
- 監督として臨んだ1979年のオールスター戦で、現役晩年で力の衰えた王貞治か、あるいは山本浩二や掛布雅之といった後進を4番打者にするべきかという問題に対し、「誰が何と言ってもセ・リーグの4番は王です。王以外にはいません」
- 1988年シーズンオフ、王貞治監督の後任としてフロントから監督就任を要請されるも「王は自分が納得するまで監督業をやっていない。だから王の代わりに私が監督をするのは困難です。1度巨人軍を出て行った私が監督をしたらなぜONより目立たない広岡が監督をするんだとファンから非難されますから」と固辞した。
- 1998年、森祇晶の名前が巨人の監督候補に挙がった時「巨人の監督には長嶋や王、原のようなスター性と人格が必要だ。森はふさわしくない」と発言。森の怒りを買った。
- 野間口貴彦投手について「初めて野間口を見たとき、シダックス時代に野村は何を教えていたんだろうと首を傾げましたよ。あんな投げ方じゃ球種が相手球団に丸見えですよ。捕手出身の野村がどうして、あんな欠点に気づかなかったわからない」
- 不振が続いたダン・ミセリやゲーブ・キャプラーに、本人または代理人の合意なしに二軍降格できない契約が結ばれていたことに対し、「ミセリの横暴はトマソンやヒルマンをはるかに超えてますよ。彼らを連れてきたフロント担当者は私が上司だったら、懲戒解雇されてしかるべきです」(トマソンは球団最多三振記録を作った挙句に藤田元司監督と確執を起こし解雇され、ヒルマンは広岡との確執からロッテを退団し巨人に移籍したものの、仮病で登板拒否を繰り返してフロントの怒りを買い解雇された)
- 2005年、辞任説や途中休養説のあった堀内恒夫監督の後任として阪神の星野仙一シニアディレクターが就任するという噂がささやかれたことについて「星野を巨人の監督にするなんて巨人OBを馬鹿にしている」
- かつてのチームメイトだった巨人の藤田元司元監督の死去について「監督から『頼む』と言われれば嫌と言った事がない。藤田さんは正直で義理人情に厚い、良き時代の日本の選手でした。巨人に義理を立てなければ、もっともっと野球界のために働ける人だった。自分の信念に従い、やりたいことをやって生きたのだから満足だったと思う」
- 自身の著書には藤田の監督としての能力は長嶋や王よりも上だ、と記している。が、公式な場ではなぜかその旨を発言したことはない。その理由は、川上元監督と対立して古巣を追い出された広岡にとって巨人で『名将』と呼ばれるほどの実績を残した藤田は、尊敬に値する野球人であると同時に強いコンプレックスを抱かせる存在であったため、素直に藤田のことを評価することができなかったからではないかと推察される。(ちなみに広岡は長嶋の『カンピュータ』采配には否定的であるが、長嶋や王の人間性などを批判したことはない)
- 雑誌のインタビューで、亡くなった藤田元監督を引き合いに出して「亡くなった藤田さんが巨人OB会会長時代、『OB会が圧力団体になってはいけない』とOBの提言を禁じていたため、ボクもこれまで発言を控えていました。でも、一茂がアドバイザーをやっているような今の巨人の体制はおかしいですよ。愛する巨人のため、私はこれからも積極的に発言していきますよ」
- 上記発言のように、長嶋一茂がフロントの一員として活動していることを折に触れて批判している。一茂はこれら広岡の批判に激怒し、弁護士を通じて内容証明郵便で警告書を送付したこともある。
- 2003年、原監督がわずか2年で解任されたことに抗議して、藤田と共に読売新聞、報知新聞の購読を打ち切った。
- 成績不振によりファンの非難を浴びて辞任した巨人の堀内前監督が、藤田元監督の葬儀に欠席したことについて「藤田さんの葬儀に欠席するなんて堀内はおかしいですよ。ファンのバッシングもようやく収まったのに、どうして葬儀に欠席するんですか。堀内ほど性格が変わった野球人は今までいなかった」
- 2006年2月、原新監督の要請で臨時コーチとして巨人キャンプに招かれる。その際、内海哲也が視察に来ていた金田正一について「金村さん」「300勝ぐらいした人」と発言したのを聞いて激怒、選手全員を集めて「伝統ある巨人の一員として先輩に対する感謝の意識がなさすぎる。多くの偉大な先輩達によって伝統ある巨人軍が成り立って来たんだ。こんなことでは試合に勝てないぞ」と一喝した。
- 1964年8月6日の国鉄戦で、広岡の打席のとき三塁にいた長嶋茂雄が独断でホームスチールを行い、巨人ベンチも特にそれをとがめようとしなかった。広岡はこれにバットを叩きつけて激昂し、「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と川上哲治監督に噛み付いた。後年和解するまで続いた川上との確執は、この出来事が原因とされている。
- 新人のころ、早稲田大学の先輩である南村侑広にいやがらせめいた仕打ちを受けたことがショックだったようで、後年著書やインタビューで度々その事に触れている。
- 2007年の宮崎キャンプを視察に訪れた北京五輪日本代表・星野仙一監督に原監督が頭を下げて挨拶したことに対し、「礼節をわきまえるのは大切なことだが、あそこまで頭を下げる必要はない」とコメント。さらに「星野は日本一になっていないのだから原の方が格は上だ。星野は原にチャンピオンのなるためのアドバイスをしてもらったほうがいいのでは」とも語っている。
- 星野はこれまで3回日本シリーズに監督として出場しているが1回も日本一にはなっていないが、原は2002年に日本一になっている。
- プロ野球界では学歴、プロ在籍歴に関係なく、年齢で上下関係が決まる慣行があるため、年長者への対応として原の行動が間違ってるとは言いきれない。
[編集] 西武関連
- 西武監督だった当時、チームのエースピッチャーだった東尾修について「東尾は、味方が10点取ってくれれば9点まではいい、と言う感じでやっています。でも勝ちゃいい、と言う考え方は私には許せない。そんな考えがまかり通れば、みんなで勝ち取ったものはなくなりますよ」
- また東尾が「広島でオールスターがあるので妻(当時、ライオンズ前本拠地の福岡在住だった)に会える」と発言したことに対して、「旦那に会いたいなら自分から来ればいい。夫の身の回りの世話をするのが女房の仕事でしょう」と述べた。
- 1981年ドラフト1位で入団し新人王を獲得した石毛宏典に対し「石毛のスローイングは、全くなっていません。一体こんなスローイング誰が教えたんですか」(石毛は当初この発言に反発したが、後に広岡に教えを請うている)
- 1982年のドラフト会議で立教大学の野口裕美投手の1位指名を確認した後、スカウトたちにその場を任せて都内のホテルから立ち去った(なお、この年のドラフトは高校生の当たり年と言われた)。
- 西武監督時代の最後の年に入団した大久保博元について「最初からDHを狙っている選手なんかいりません。打って走って守るのが野球の本筋です。大久保は太りすぎだから自己管理がなってないんです。彼の体格なんて大相撲の力士ですよ。野球選手、あるいはスポーツ選手として失格ですね」(しかし、大久保のバッティングについては高く評価しており、大久保の背番号を西鉄時代の中西太にあやかった6に変更させる計画もあったという)
- 自身が西武の監督を辞任した後、かつての部下だった森祇晶の次期監督就任が決まると「森は人格に問題があるから監督は無理でしょうね」と発言。この発言により、現役時代から続いた広岡と森の蜜月関係は崩壊した。
- 1993年、秋山幸二のダイエー移籍について「根本さんから電話があるまで秋山のトレードは知らなかった。ダイエーの中内さんにしても知らなかったでしょう。ああいう発言をしたからいいとしても、前任者(広岡のこと)の時代から主力として活躍しているなら(森が)前任者に声をかけるのが普通ですね」(当時、中内はダイエー本社の社長であると同時に球団のオーナーでもあった)
- 1995年、東尾が森の後任として監督に就任した際「これで西武ライオンズも終わりました。西武のフロントは私や森が築いてきた土台をぶっ潰すつもりですか」
- しかし東尾は西武監督として、7年間の在任期間中に2度のリーグ優勝を果たし、2001年まで7年連続Aクラスという成績を残した。それについては「あれは須藤豊(当時の西武ヘッドコーチ)の功績だ」と発言をしている。
[編集] 野村克也関連
- 2005年、低迷した楽天の再建案作成を三木谷浩史オーナーから依頼され、田尾安志監督の続投を柱とする案を作成したが受け入れられず、田尾の後任監督には野村克也が就任した。そのように三木谷に袖にされた腹いせからか「野村ヤクルトが黄金時代を築けたのは、私が監督をやっていた頃の現役選手(例えば若松勉、水谷新太郎など)がコーチをやったから。前任者の関根さんが非難を浴びながら広澤や池山などの若手を鍛えた上にコーチが良ければ野球は勝てるんです。だから野村が楽天の監督をやったところでどうにもならない。阪神をやった時と同じでしょう。」と週刊誌上で怒りをあらわにしていた。
- 更に「野村に楽天を強くしようなんて考えはさらさら有りませんよ。選手が揃ったチームなら、イスに座って理論を話しているだけでもいいかも知れない。だが、これから作っていかなければいけないチームでは、手取り足取り繰り返し教える根気とエネルギーが必要なんです。グラウンドを歩くので精一杯なようでは成績は上げられない。それに楽天のような前向きでない選手たちは、負けがこんできて愚痴ばかり言われたらついてきませんよ」(広岡は、監督といえど選手に手本を示せないようでは駄目だと述べており、思うように体が動かなくなる老齢まで監督をやる事に対して批判的な立場である)
- 上記のとおり、広岡は野村に対し否定的な発言を続けている。しかし野村の方は、著書『巨人軍論』などを読む限りでは、広岡に対し好意的な印象を抱いているようである。ちなみに同著の中で野村は「阪神の星野シニアディレクターを巨人に招けば、血の有効な入れ替えになりうる」と、広岡と正反対の意見を述べている。
- 1977年の野村以来29年ぶりにプレーイングマネージャーとなったヤクルトの古田敦也監督に対しては、「プレーイングマネージャーという制度には感心しませんね。選手をやりながら、監督として他の選手を見るなんて出来ませんよ」(これに関しては野村も「私の監督時代にはブレイザーがいましたが、実質上の指揮は彼に任せていましたよ」と発言している)
[編集] その他発言
- 「プロ野球機構に入った以上は、トレードされるものという認識を持つことです」
- 「コーチに従わない一匹狼は、自由契約にするしか方法がないんですよ。自由契約を拒むのであれば、トレードに出すしかなす術はありません」
- 「監督は友達ではありません。だから選手の面々が私(監督時代の広岡)に直接話しかける事を禁止する。話がある場合はコーチ陣を通じて話すように」(ただし、実際は選手と広岡が直接話し合うことは度々あった)
- 33試合連続安打という日本記録を樹立し、広島東洋カープの正遊撃手として活躍していた高橋慶彦について「基本がなっていません。今は体のバネがきいているからいいですが、怪我で体が動かせなくなると、すぐに潰れてしまいますよ」
- 西武監督時代、当時全盛期だった阪神タイガースのランディ・バースについて「あの怪物はアメリカに帰ってもらいたいですね」(西武が阪神に4勝2敗で敗れた1985年の日本シリーズで、バースは3本塁打を放ち、MVPに輝いている)
- 1996年、園川一美がロッテの開幕投手になったことについて「私が監督だったら園川は降板させますよ。伊良部や小宮山がいる中で開幕投手というのは疑問ですね」(園川は、開幕戦の相手であったダイエーとは前年4勝1敗と相性がよく、江尻亮監督はそれを見込んで起用したと思われる)
- 2003年4月23日、オリックスの石毛宏典監督が解任されたことについて「石毛はチームリーダーとしては適任ですよ。ただ、彼は工藤や伊東、秋山と違って指導者としては不向きです。それを見抜けなかったオリックス関係者にも責任があります」
- 中日ドラゴンズの落合博満監督は、就任時の選手たちとの初顔合わせにおいて「走・攻・守、どれか一つでも優れていればそれでいい」と発言。さらに2004年開幕直前に出演したNHKのサンデースポーツでは「私は管理野球というのは大嫌いですから」と満面の笑みで語っていた。これらは「打って走って守れてこそ野球選手」「監督を頂点とする徹底した管理野球」という広岡の主義信条に対する批判とも見られている。広岡はこれに反発する形で、同年の中日のリーグ優勝について「日本の野球は監督を育てていない。落合監督が優勝出来たのは他の人たちのレベルが低いから」と述べている。
- 川藤幸三も、現役時代に『代打の切り札』として活躍したという自負からか、このような広岡の野球理論を批判している。しかし、東尾修や江夏豊らとは違い、氏の人間性については批判していない。
- ヤクルト監督時代、1978年のチーム日本一の立役者であったはずのチャーリー・マニエルを全く評価しなかったように、打撃のみに特化した選手を嫌っている。かつては門田博光なども槍玉に挙げていた。2006年のシーズン開幕前にもソフトバンクの松中信彦に対して「イチローのように(走攻守)3拍子揃っていればいいが、打つだけの選手(松中)にどうしてソフトバンクは大型契約をしたんですか。打たなければ清原のような存在になって、選手の気持ちは1つになりませんよ。投手コーチの尾花君が巨人に移ったのも大きいし、シーズンの1位通過は危ないでしょうね」(なおマニエルは、池井優の著書で広岡の人間性を批判していたが、後に自身がメジャーリーグの監督になってから「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」と発言している)
- そのような野球観から、DH制に関しても否定的な見解を持っていた。しかし西武監督を経た後は、「中途半端な野球選手を作ることを別にすれば、攻撃的な野球が展開できて面白い」と意見を若干変えている。
- 2006年4月、オリックスの清原和博が「俺にデッドボールをぶつけた奴は必ず次の対戦でつぶす」と発言をしたことについて、「何であんな投手を威嚇するような発言をするんですか。ある人物を擁護するわけではないが、投手にとって、内角をえぐるのは常套手段であって、避け方が下手な清原のほうに非があるのは誰の目にも自明でしょう。怪我をしないように努力せず他人に押し付けているようではプロ野球選手として失格ですよ」(ここで広岡の言う『ある人物』とは、確執のある東尾修のことと思われる。東尾は現役時代に内角攻めを得意としており、通算与死球数の日本記録も持っている)
- 2006年5月7日、日本ハムの新庄剛志が「前例を作るのは勇気がいること。これからも僕のように勇気をもって前例を作る選手が現れることを望む」と、襟付きのアンダーシャツで試合に出場したことに関する声明を発表したことを受けて、「勘違いしている。最近の若いものはこういった勘違いをするものが多くていけません」(ただ、新庄の持つ高い才能は早くから評価しており、阪神時代の伸び悩む姿を見て「最初に教えた人がちゃんと仕込んでいれば、最高の選手になれたのに」と惜しんでいた)
- また同日、ロッテのボビー・バレンタイン監督が試合前のファンサービスで社交ダンスを披露したことについて「社交ダンスをファンサービスに取り入れるなんて何を考えているのでしょう? ファンサービスの基本を忘れていますね」
- 自著「監督論」では、同業の野球解説者や野球中継などについて「野球界のバラエティー化は『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』が元凶。また選手自らバラエティー番組に出たがっているのでは救いがない。プロ野球の一握りのトップグループにいるという自覚を持って尊敬される行動をとるべき」「(解説者は)アナウンサーが取材すべき話を披露する必要はない。また、コーチングスタッフの一員に取り立ててもらおうという下心は捨て、もっと選手のプレーを叱咤すべき」と、痛烈な批判を浴びせている。
- 2006年の開幕前野球の日本代表がワールド・ベースボール・クラシックで優勝、初代覇者になったがそれにかこつけて開幕からしばらくの間の野球中継で「WBCで日本が野球で世界一になったじゃないですか。なのに日本のプロ野球では何故アメリカから指導者を呼ぶのでしょう?アメリカから学ぶ必要はありません。」とヘイトスピーチとともとれる発言をしている。
- 2006年11月4日、ヤクルト対東京六大学選抜のTOKYO MX中継の解説時に「今年の日本シリーズではファイターズがバントをやり過ぎではないかと言う声もありましたが」とアナウンサーから聞かれ「それは経験した事の無い人が言う事です」と答えた。
- 小説家の海老沢泰久は、ヤクルト時代の広岡をモデルに小説「監督」を執筆している。この作品は現在でも、日本のスポーツ小説の金字塔と評価が高い。海老沢は広岡を好んで題材にしており、他にも西武監督就任の背景を追った短編ノンフィクション「広岡達朗の790日」や、1982年のシーズンの様子を描いた「広岡達朗1982」がある。また辺見庸も広岡のインタビューを残している。
[編集] タイトル・表彰
[編集] 現役通算成績
- 1327試合 打率.240 1081安打 117本塁打 465打点
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976年 | 5位 | 130 | 52 | 68 | 10 | .433 | 23.5 | 128 | .260 | 3.88 | 44歳 | ヤクルト |
1977年 | 2位 | 130 | 62 | 58 | 10 | .516 | 15 | 170 | .267 | 4.01 | 45歳 | |
1978年 | 1位 | 130 | 68 | 46 | 16 | .596 | ― | 157 | .279 | 4.38 | 46歳 | |
1979年 | 6位 | 130 | 48 | 69 | 13 | .410 | 19 | 157 | .252 | 4.60 | 47歳 | |
1982年 | 1位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | ①③ | 131 | .253 | 3.31 | 50歳 | 西武 |
1983年 | 1位 | 130 | 86 | 40 | 4 | .683 | ― | 182 | .278 | 3.20 | 51歳 | |
1984年 | 3位 | 130 | 62 | 61 | 7 | .504 | 14.5 | 153 | .256 | 4.10 | 52歳 | |
1985年 | 1位 | 130 | 79 | 45 | 6 | .637 | ― | 155 | .272 | 3.82 | 53歳 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1976年から1996年までは130試合制
- 監督通算成績 966試合 498勝406敗62分 勝率.551
[編集] 現在の出演番組
[編集] 著書・参考文献
- 私の海軍式野球(自著 サンケイ出版)
- 監督(海老沢泰久著 文春文庫)
- みんなジャイアンツを愛していた(海老沢泰久著 新潮社)
- 監督論(自著 集英社インターナショナル)
- わが野球教育学(自著 毎日新聞社)
- 巨人を超えた男(越智正典著 恒文社)
- 勝者の組織論(長嶋茂雄 共著 講談社)
- 広岡野球の戦略(塩沢茂著 芳文社)
- 広岡達朗が教える悪の管理学(後藤寿一著 泰流社)
- 広岡語録大研究(山根徳光著 東京経済)
- 勝者の方程式(自著 講談社)
- 意識革命のすすめ(自著 講談社)
- 積極思想のすすめ(自著 講談社)
- 私の野球人生(広岡達朗述 富山県教育委員会)
- 成功への羅針盤(自著 産経新聞ニュースサービス)
[編集] 関連項目
- 広島県出身の有名人一覧
- がんばれ!!タブチくん!!(広岡氏がモデルのヒロオカ監督が登場している)
- すすめ!!パイレーツ(度々登場)
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