トッド・エルドリッジ
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トッド・エルドリッジ(Todd Eldredge、1971年8月28日-)は米国のフィギュアスケート選手。マサチューセッツ州チャタム出身。コーチはリチャード・キャラハン。現在はミシガン州のロチェスター・ヒルズ在住。世界選手権男子シングル優勝1回、全米王者6回など輝かしい経歴を誇る、1990年代を代表する名選手である。現在は世界最高のプロ・フィギュアスケーターが集う「スターズ・オン・アイス」ツアーの常連として活動を続けている。2005年にメガン夫人と結婚。
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[編集] 来歴
ケープ・コッドの漁師の家に生まれる。5歳のクリスマスにスケート靴をプレゼントされてスケートを始めるが、当初両親はアイスホッケーを教えるつもりであった。しかしジャンプやスピンに興味を持っていたトッドは両親に直訴してフィギュアスケートを習い始める。両親はトッドの興味がどこまで続くものか半信半疑であったが、トッドはやがて幼稚園に行く前にも帰った後にもリンクに連れて行くようせがむようになる。トッドの情熱は本物だったのである。
7歳になる頃にはフィギュアスケート教室のサマー・キャンプに参加するようになり、10歳までには有力な少年選手の一角を占めるようになっていた。もはや地元ではこれ以上トッドの才能を伸ばせないことに気付いた両親は、渋々ながらもトッドをフィラデルフィアにホームステイさせて、より有力なコーチに師事させることを選ぶ。この決断は、しかし正解であった。トッドは10年に1度というレベルの天才だったのである。1985年にはノービスの国内王者、1987年にはジュニア王者、1988年にはジュニア世界王者となる。いずれも当時最年少での戴冠である。
1990-1991シーズンには18歳で全米選手権を制し、世界選手権も3位となる。トッドの将来は輝かしいものに思えたが、彼を背中の故障が襲う。この故障は長引き、3シーズンを棒に振ることになる。
1994-1995シーズン、ようやく故障から復活したトッドはNHK杯で1位(2位はフィリップ・キャンデロロ)で再び注目を浴びる。スケートアメリカ1位、全米選手権1位と破竹の勢いで世界選手権に臨むも、プログラム2回目の3アクセルで転倒してしまう。意を決したエルドリッジは最後のジャンプを予定では2アクセルであったが、即席で3アクセルに変更し見事成功する。その意欲的な行為は大きな感動を呼んだ。この時、キャンデロロのコーチが『同じ種類のジャンプを3回試みることはルール違反であり、減点されるべきだ』と抗議したが、最終的には減点されなかった。しかしながらエルドリッジは2位。優勝したのはエルビス・ストイコである。
1995-1996シーズンは全米選手権でルディ・ガリンドーに敗れて2位となる。しかしこの敗戦をバネにしたトッドは世界選手権で念願の1位を獲得。全てのジャンプを美しく着氷し文句なしの1位であった。
1996-1997シーズン インディペンデンス・デイのサウンドトラックにのせてスケート・アメリカ、ラリック・トロフィ(現在のトロフィ・エリック・ボンパール)ともに1位。スローパートでのスケーティングの清潔な美しさは極めて高い評価を得た。世界選手権では2回目の3アクセルが1アクセルとなり、95年同様、プログラム最後の2アクセル→3アクセルに変更するが転倒、2位に終わる。しかしその類いまれなスケーティングで審査員・観客を魅了した。1位ストイコ、2位エルドリッジ。
97-98シーズン 長野オリンピックのため、プログラムに4回転を入れるかどうかコーチと悩み、最終的に4回転を入れないことでシーズンを迎えた。ライバルのストイコ、イリヤ・クーリックは4回転をプログラムに入れている。当時、旧採点システムでは4回転を成功させるかさせないかで 評価は大きく分かれた。俗に言われる「空中戦の時代」である。4回転をプログラムに入れていないエルドリッジはそれだけで技術的な基礎点を下げられてしまった。
長野オリンピックのショートプログラムではほとんどミスの無い演技であったが3位。(1位:クーリック、2位:ストイコ)あまりにも完成度の高いエルドリッジの演技にテレビ解説の五十嵐文男氏も思わず「惜しかったですね」と本音を漏らした。フリープログラムでは クーリックが4回転を含む全てのジャンプを成功させ、ストイコ以外の逆転を不可能にしてしまう(当時は順位点による勝負であった為、ショートプログラムで3位以下になるとフリー・プログラムでの逆転は、相手が致命的なミスを連発しない限り不可能であった)。エルドリッジは冒頭に3回転+3回転のコンビネーションを2つ用意していたのだが、着氷が不安定になってしまったため、2つとも3回転+2回転のコンビネーションに変更せざるを得なかった。そこから彼は動揺し、彼にとって簡単な3回転のジャンプでさえ、危うくバランスを崩しかけてしまう。最後に逆転する為に、後半2アクセルを飛ぶ予定を、急遽3アクセルのコンビネーションにしようと試みて、転倒してしまった。最終的にショート5位のキャンデロロに逆転されて4位に終わる。
長野オリンピックの後の世界選手権では、4回転をプログラムに入れていないというだけで、技術点で5.4平均という低い評価を受けねばならなかった。その後、アマチュア資格を保持しつつ、各種大会に出て成績を残すが、旧採点システムでは4回転をプログラムに入れていないと優勝を狙うほどの点数は得られなかった。2001-02シーズン、最後のオリンピックのショートプログラムで4回転トゥ+2回転トゥを なんとか躓きそうになりながらももちこたえて成功させる。最終的に6位を得た。
[編集] 評価
清潔感あるスケーティングにはファンも多く、4回転は飛べないながらもその風格は偉大な王者の名に相応しいものであった。「4回転を飛ばない最後の世界王者」ともいわれている。またスピンの際、氷に対し体の軸が垂直に伸び、またスピンをしていても、スピンをしている位置が殆ど移動しないため、「フィギュアスケートの教科書のような演技をする選手」として、現在でも非常に高い評価を得ている。また、「サルコウジャンプを無くしてしまいたい。」と言うほど、サルコウジャンプを苦手としている。
2002年ソルトレイク・オリンピック、フリー・プログラム「The Lord of the Rings」では31歳ながら果敢に4回転ジャンプにも挑戦し(転倒)、ファンの感動を呼んだ。同世代のライバル、エルビス・ストイコはフリーでの滑走順がエルドリッジの直後であったが、リンクに入る時にエルドリッジと手を合わせてお互いの健闘を称えたシーンや、ストイコのフリー・プログラム終了後「(アマチュアとしては)全てをやり終えた」といった表情で抱き合ったシーンがファンの感動を呼んだ。
新採点システムがもっと早く導入されていればスケーティングが評価され、9点台(数十年に1度、到達可能なレベル)も可能な選手であったとの声さえある。
[編集] 概要
エルドリッジは、逆回転(右回り)でジャンプやスピンをするため、左利きと思われているが、実は右利きである。これは、フィギュアスケートを始めた際、左回りより右回りのほうが飛びやすかったため、そのまま右回りで演技をするようになった。
[編集] 主な競技成績
1995年、世界選手権で2位。1996年、世界選手権で優勝。1997年、世界選手権で2位。1998年、長野オリンピックで4位入賞。1998年、世界選手権で2位。
[編集] 故郷であるチャタムとの繋がり
トッドが故郷を離れてフィラデルフィアで修行していた12歳の時、トッドを最大の危機が襲った。トッドの両親がこれ以上の練習費用を負担出来なくなり、トッドは引退の危機に追い込まれたのである。しかしこの時、彼の故郷であるチャタムの町の人々は、彼等の町が生んだ正真正銘の天才がキャリアを続行することを望み、速やかに「トッド・エルドリッジ・ユース・ホッケー・ファンド(Todd Eldredge Youth Hockey Fund)」を設立して彼に資金援助を開始した。
後年フィギュアスケーターとして大成功を収めたトッドはこの恩に報いる為、「チャタム再生基金(Chatham Recreation Fund)」を設立して故郷の若者たちのスポーツ活動を支援するとともに、故郷に多目的運動場を1面寄贈した。この運動場は「トッド・エルドリッジ競技場」と名付けられた。
[編集] 慈善活動
天才ではあったが同時に数多くの苦労も経験した彼は、慈善事業にも熱心に取り組んでいることで知られる。趣味のゴルフ(ハンディ6の腕前)では、毎年のように有名人によるチャリティ・ゴルフ大会に参加しているし、スペシャル・オリンピックへの支援や難病と戦う子供達を支援する組織のスポークスマン役も行っている。
[編集] 外部リンク
- ToddEldredge.net ファンサイト
1896: ギルバート・フックス | 1897: グスタフ・ヒューゲル | 1898: ヘニング・グレナンダー | 1899-1900: グスタフ・ヒューゲル | 1901-1905: ウルリッヒ・サルコウ | 1906: ギルバート・フックス | 1907-1911: ウルリッヒ・サルコウ | 1912-1913: フリッツ・カチラー | 1914: ゴスタ・サンダール | 1922: ギリス・グレイフストレーム | 1923: フリッツ・カチラー | 1924: ギリス・グレイフストレーム | 1925-1928: ウィリー・ボエケル | 1929: ギリス・グレイフストレーム | 1930-1936: カール・シェーファー | 1937-1938: フェリックス・カスパール | 1939: ヘンリー・グラハム・シャープ | 1947: ハンス・ゲルシュヴィラー | 1948-1952: ディック・バトン | 1953-1956: ヘイス・アラン・ジェンキンス | 1957-1959: デヴィッド・ジェンキンス | 1960: アラン・ジレッティ | 1962: ドナルド・ジャクソン | 1963: ドナルド・マクファーソン | 1964: マンフレート・シュネルドルファー | 1965: アラン・カルマ | 1966-1968: エメリッヒ・ダンツァー | 1969-1970: ティム・ウッド | 1971-1973: オンドレイ・ネペラ | 1974: ジャン・ホフマン | 1975: セルゲイ・ヴォルコフ | 1976: ジョン・カリー | 1977: ウラジミル・コバリョフ | 1978: チャールズ・ティックナー | 1979: ウラジミル・コバリョフ | 1980: ジャン・ホフマン | 1981-1984: スコット・ハミルトン | 1985: アレクサンダー・ファデーエフ | 1986: ブライアン・ボイタノ | 1987: ブライアン・オーサー | 1988: ブライアン・ボイタノ | 1989-1991: カート・ブラウニング | 1992: ヴィクトール・ペトレンコ | 1993: カート・ブラウニング | 1994-1995: エルビス・ストイコ | 1996: トッド・エルドリッジ | 1997: エルビス・ストイコ | 1998-2000: アレクセイ・ヤグディン | 2001: エフゲニー・プルシェンコ | 2002: アレクセイ・ヤグディン | 2003-2004: エフゲニー・プルシェンコ | 2005-2006: ステファン・ランビエール | 2007: ブライアン・ジュベール |