ビル・ラッセル
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男子 バスケットボール | ||
金 | 1956 | バスケットボール |
ウィリアム・フェルトン・ラッセル(William Felton "Bill" Russell、1934年2月12日-)は、ルイジアナ州モンロー出身のNBAの元バスケットボール選手で元コーチ。所属したボストン・セルティックスを11回の優勝に導いた。ディフェンスの側面で競技に革新的な影響をもたらし、バスケットボールの歴史上最も偉大な選手の一人と考えられている。
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[編集] プロ入り以前
9歳の時に家族とともに故郷のルイジアナ州からカリフォルニア州オークランドに移り、そこでバスケットボールを始める。
高校時代には4年生になるまでチームの先発メンバーにはならなかったが、カリフォルニア州を代表する高校選手の一人に選ばれるまでになる。結果、サンフランシスコ大学でバスケットボール選手として奨学金を得ることが決まり、同大学に進学した。
大学でラッセルは大いに活躍し、1955年と1956年の2年連続NCAA優勝の他に公式戦55連勝という素晴らしい記録を打ち立てた。1955年には、トーナメントの最優秀選手に選ばれている。大学時代のチームメートには、のちにプロ時代の同僚になるK・C・ジョーンズもいた。
[編集] 現役時代
[編集] 入団
1956年にボストン・セルティックスに入団。この年、セルティックスは通常のドラフト指名権を放棄して地域ドラフトでトム・ハインゾーンを獲得することを考えていたが、ラッセルも是非ともほしい選手だった。そこで、チームの監督兼ジェネラル・マネージャーだったレッド・アワーバックは、セントルイス・ホークスに取り引きを持ちかけた。ホークスがドラフト第2位でラッセルを指名し、セルティックスが二人の選手とトレードしてラッセルを獲得するという交換条件は成立した。
ラッセルは1956-57シーズン開幕時に、バスケットボール米国代表としてメルボルンオリンピックに参加し、金メダルを獲得する。以後ラッセルは、このシーズン遅れてチームに合流して以来、1969年に引退するまでの13年の選手生命をセルティックスで過ごした。
ラッセルが加わった当時のセルティックスでは、毎年アシスト王になっていたボブ・クージー、このシーズンの新人王になったトム・ハインゾーン、チームで得点首位のビル・シャーマンなど、将来殿堂入りする選手がチームの中心メンバーとなっていた。試合中には、ラッセルのリバウンドからクージーにボールが渡り、速攻により得点が決まるという攻撃がよく見られた。速攻はこの時期のセルティックスの特徴で、ラッセルのリバウンド力を活かしたオフェンスのスタイルだった。1956-57シーズンのラッセルは、新人ながら平均リバウンド数19.6を上げ、リーグ最高を記録している。
[編集] 「ボストン王朝」の時代
ラッセルが在籍中の13年間にセルティックスは1958年と1967年を除く全ての年に優勝している。NBAのチーム数は、ラッセルが新人だった1956年には8、引退した1969年には14と、現在の30よりも少なかったが、セルティックスが容易に優勝できたシーズンはなかったと言ってよい。
ラッセルにとって初めてとなる1957年のNBAファイナルではセントルイス・ホークスと対戦。4戦先勝で優勝を決めるシリーズで、第7戦は延長2回の末2点差でセルティックスが勝つという激戦だった。
翌1958年のファイナルでは、ラッセルが怪我のため第4戦以降に欠場したこともあり、セルティックスは優勝を逃した。そのさらに翌年の1959年から1966年にかけて、セルティックスはリーグを8年連続で制覇している。これは連覇の記録としてNBA史上最長で、それに次ぐ連続優勝は1990年代のシカゴ・ブルズや2000年以降のロサンゼルス・レイカーズの3連覇が最高である。
1959年のプレイオフでは、イースタン・ディビジョンのファイナルでシラキュース・ナショナルズと第7戦までもつれ込んだ末、NBAファイナル進出。ファイナルではミネアポリス・レイカーズに4連勝し、優勝した。
翌シーズンにはウィルト・チェンバレンがデビュー。新人ながらMVPを獲得するチェンバレンは、この後数年間にわたりラッセルとコート上で熾烈な戦いを繰り広げることとなる。プレイオフのイースタン・ディビジョンファイナルで、セルティックスはチェンバレンのフィラデルフィア・ウォリアーズと対戦し、セルティックスがこのシリーズを制した。NBAファイナルではセントルイス・ホークスを第7戦で下し、セルティックスは連覇を果たす。
以後、1961年にはセントルイス・ホークス、1962年、1963年のNBAファイナルではロサンゼルスに移転したレイカーズと対戦、エルジン・ベイラーやジェリー・ウェストら名選手の率いるチームを相手に連覇。1964年のNBAファイナルではウィルト・チェンバレンのサンフランシスコ・ウォリアーズ(フィラデルフィアから移転)を下した。1965年、1966年には再びレイカーズを倒し、ラッセルのセルティックスは8連覇を成し遂げた。しかし楽に連勝していたわけではなく、フィラデルフィアと対戦したイースタン・ディビジョンファイナルや、レイカーズと戦ったNBAファイナルなどでは最終の第7戦までもつれたシリーズもしばしばあった。
1967年には、イースタン・ディビジョンのファイナルでフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦。ウィルト・チェンバレンが移籍していたシクサーズにセルティックスは4勝1敗で敗退。連覇は8で止まった。このシーズンは監督職を退いたレッド・アワーバックの後継としてラッセルが選手兼監督を務めた最初のシーズンだった。
1968年、セルティックスはイースタン・ディビジョンファイナルで再びシクサーズと当たり、第7戦で退け、NBAファイナルではレイカーズを破り再び優勝。翌シーズンもNBAファイナルに進出し、レイカーズを7戦目で下して2連覇を果たした。このシーズンを最後にラッセルは引退、13年間のキャリアで8連覇を含めて11回優勝し、NBAの歴史に金字塔を打ち立てた。
[編集] 選手としての総括と業績
ラッセルは、当時はオフェンスばかりが強調されていたセンターのポジションでも、強力なディフェンスができることを証明し、NBA史上、最も優秀な守備的センターであると評されている。
ディフェンスにおけるラッセルの功績の一つは、非常にレベルの高いブロックをバスケットボールにもたらしたことだった。ラッセルのブロックは単にシュートを阻止するのみならず、同時に味方に対するパスになっていることがよくあった。したがって、ラッセルのブロックから始まる速攻もセルティックスの得点源になった。「ラッセルはブロックを芸術の域まで高めた」と評価する専門家もいる。
NBAが試合ごとにブロックの記録を取るようになったのは1973年からなので、ラッセルのブロック数はわかっていない。
ラッセルはリバウンドの名手でもあった。身長は208センチ、体重は100キロと特別恵まれた体格ではなかったが、ボールの落ちる位置の予測や適切なポジショニング、落ちる点への移動の速さで身体的な不利をカバーした。
同じ時代に活躍したウィルト・チェンバレンなどと比べると、ラッセルは得点に関しては平凡に見える。セルティックスにはビル・シャーマン、トム・ハインゾーンやジョン・ハブリチェックなど得点力のある選手がおり、ラッセルは自分の役割に専念していたとも言える。
史上屈指の得点力を持つウィルト・チェンバレンと史上屈指のディフェンダーであるラッセルの対決は、NBAで最も有名なライバル関係の1つである。ライバルと言っても決して不仲だったわけではなく、試合の前後にいっしょに食事に行くような友人だった。
MVPは5回受賞している(1958年、1961年、1962年、1963年、1965年)。オリンピックに出場し参加の遅れたルーキーシーズンを除く全ての12シーズンにオールスターに選出され、1963年にはオールスター戦のMVPに選ばれている。
生涯通算リバウンド数は21,620本で、チェンバレンに次いで歴代2位。1試合当たりの生涯平均リバウンド数は22.5で、これもチェンバレンに次ぎ歴代2位。その他プレイオフでのリバウンドなどでいくつかの記録を持つ。
1975年に殿堂入りを果たした。NBA創設25周年、35周年、50周年(1970年、1980年、1996年)を記念して選出されたオールタイムチームの一人に選ばれた。1980年にはアメリカのプロバスケットボール記者協会により「史上最も偉大なNBAの選手」に選出された。
優勝回数11回は、歴代NBA選手の中で最多である。
[編集] 監督歴
1966年にNBAで初めての黒人のコーチとなり、引退するまで選手としても活躍した。引退後は、1973年から1977年までシアトル・スーパーソニックスのコーチを務め、1987年から1988年までサクラメント・キングスのコーチを務めた。シアトルでは162勝166敗、サクラメントでは17勝42敗という成績だった。
[編集] その他
公民権運動にも積極的に関わっており、ラッセルやチームメートの黒人がレストランや喫茶店への入店を拒否された町での試合を拒否したことがある。
ラッセルは現在でも史上最も偉大な選手の一人と考えられているが、プレッシャーと無縁ではなかった。試合の直前には緊張のためしばしば吐いていたということである。
ファンからのサインの要求を断ることでも知られていた。また、殿堂入りの記念式典やセルティックスで背番号を永久欠番にする式に「個人的な理由」などで出席しなかった。
引退後はNBAの試合のコメンテーターやリポーターとして活躍したこともあった。またテレビドラマのマイアミ・バイスに出演したこともある。
先代: レッド・アワーバック |
ボストン・セルティックス ヘッドコーチ 1966–1969 |
次代: トム・ヘインソーン |
先代: バックリー・バックウォルター |
シアトル・スーパーソニックス ヘッドコーチ 1973–1977 |
次代: ボブ・ホプキンス |
先代: ジェリー・レイノルズ |
サクラメント・キングス ヘッドコーチ 1987–1988 |
次代: ジェリー・レイノルズ |
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