プラハ・カレル大学
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プラハ・カレル大学は、1348年に神聖ローマ皇帝カール4世によって創立された大学である。その後フス戦争を挟んでの混乱期を経て再開されたものの、第一次世界大戦、第二次世界大戦期にたびたび分裂と閉鎖を繰り返し、現在はカレル大学(正式にはチェコ語名:Univerzita Karlova v Praze、英語名:Charles University in Pragueである)という名称で存在している。
目次 |
[編集] キャンパス
[編集] 歴史
[編集] プラハ大学の創立
[編集] 創立者カール4世
プラハ大学を創立したのは、まだドイツ王(ローマ王)になって間もなかったカール4世(在位:1347年~1378年)である。カール4世は1316年にプラハで生まれた後、1323年から1330年までパリの宮廷に預けられ、パリ大学にて学問を修めている。この経験が、後の大学創設に影響を与えたと考えられている。またこの時期に、後のローマ教皇クレメンス6世と親交を結んでおり、この関係がプラハ大学創立を強く後押しした。パリ大学にて学問を修めた彼は、当時の君主の中でも屈指の教養ある君主として知られており、当時の共用語であったラテン語はもちろんのこと、チェコ語、フランス語、ドイツ語、イタリア語を自由に使うことができたという。1346年、カール4世は父ヨハンの後を継いでベーメン(ボヘミア)王カレル1世になり、また前後して当時のドイツ国王ルートヴィヒ4世の対立王に選出される。1347年にルートヴィヒが死去すると単独のドイツ王となり、1355年にローマにて神聖ローマ皇帝として戴冠を行っている。こうして神聖ローマ帝国皇帝となったカールは、ベーメンを帝国の中心とすべく様々な活動を行っていく。カールは、大学設立前の1344年にマインツ大司教座に属していたプラハ司教座を独立の大司教座へと昇格させている。このときカールは教皇クレメンス6世と交渉をしている。こうして、プラハ大学設立の準備が整い、創立の1348年を迎える。
[編集] プラハ大学創立
こうしてベーメンの首都プラハに大司教座がおかれ、カールはいよいよ大学設立の交渉を教皇クレメンス6世と開始する。初代プラハ大司教エルネストと教皇庁との交渉の結果、1347年に、クレメンス6世の名で設立特許文書が発布される。これを受けて、カールはベーメン王として1348年に設立特許文書をプラハにて発布する。その中で、首都プラハに大学(studium generale)を設置する旨を発表し、大学の学生と教師に様々な特権を付与することを述べている。その後、1349年の勅書(通称アイゼナハ特許状)にてこれを確認している。学監はプラハ大司教とし、教師と学生は主にプラハ市内から集められたが、ヨーロッパ各地からも集まった。
[編集] プラハ大学の組織
プラハ大学は、当時存在していた大学と同様に、神・医・法の上級3学部と教養学部からなっていた。大学所属員は、学部という所属と共に、主に出身地による4つの同郷団(natio: マイセン、バイエルン、ポーランド、ベーメンの4つ)に属していた。つまり大学全体を2通りに分けていたのである。プラハ大学での大学所属員とは教師と学生を指しており、教師中心のパリ大学方式と学生中心のボローニャ大学方式を合わせた新たな方式といえよう。しかし。この両者を併せ持ったことにより、プラハ大学は様々な危機に直面することとなる。大学の意思決定機関は大学所属員全員による全学会議であったが、これとは別に大学評議会がつくられ、この評議員を教師が占めることになり、次第に大学は教師による運営へと傾いていく。
[編集] プラハ大学の分裂と特権剥奪
[編集] 危機の予兆
教師中心の大学運営へと傾くにつれ、学生の中から不満をもつものが現れ始める。彼らは法学部所属の人間が多かった。結果として、大学所有の建物の管理をめぐる対立により、法学部が分離することとなる。この分離は、パリ大学方式とボローニャ大学方式を併せ持つことによるひずみが生じているのである。その後、この分離は収まるものの、その後の大学状況に大きな影を落とす。
[編集] ベーメン人の台頭
加えて、この時期ベーメン人とドイツ人との間の対立が激化した。そのような中現れたのが、ベーメンの神学者ヤン・フスであった。彼はプラハ大学の学長を務めたほどの人物であったが、イングランドのジョン・ウィクリフに影響を受けた彼の教えは、やがてチェコ人の間に広まり、やがて大学内に大きな亀裂をひきおこす。
[編集] 皇帝位をめぐる争い
皇帝カール4世の死後、後を継いだのは息子のヴェンツェルであった。しかしヴェンツェルは「品行方性らしからぬ」という理由で1400年に皇帝位を廃位されてしまい、代わってプファルツ選帝侯ループレヒトが皇帝となる。しかしヴェンツェルはこれを認めず、ループレヒトと対立する。加えて、この当時キリスト教会内での教会大分裂によりヨーロッパ全土が分裂する中、ローマ派の教皇を支持するループレヒトに対し、ヴェンツェルは当時発言力を増していたベーメン勢力と手を結び、ベーメン国内のドイツ人たちを駆逐しようとする。
[編集] クトナ・ホラ勅令の発布とドイツ人の退去
かかる状況の中、1409年にヴェンツェルは「皇帝」としてクトナ・ホラ勅令を発布する。この勅令はプラハ大学の運命を決定するものであった。元来、大学での全学会議は先の同郷団単位での投票により決定されていた。しかし、プラハ大学ではドイツ人が優勢であり、ベーメン人の意見は通らないことが多かった(4つの同郷団のうち、ベーメン以外の同郷団はドイツ人で占められており、結果的に投票は3対1となってしまう)。クトナ・ホラ勅令は、この投票方式を変更するものであった。すなわち、ベーメン同郷団に3票の投票権を与える代わりに、ドイツ人系同郷団は1票しか行使できなくなったのである。こうして、ベーメン人は大学運営を自らに有利なように進めることができるようになったのである。他方、ドイツ人系大学所属員は不満をもち、ヴェンツェルに対して勅令の撤回を申し入れ、聞き入られない場合は大学を退去する旨の決議をした。しかし、ヴェンツェルはそれを受け入れず、新方式による投票でベーメン人の新学長選出を強行し学長職を譲るよう迫ったのである。これを受けて、ドイツ人たちはついに大学を退去する決意を固める。彼らは同年5月にプラハを対退去し始める。彼らの多くは、商業都市として名声を博していたライプツィヒに移り住む。そしてこの地でライプツィヒ大学を創立するのである。
[編集] フス戦争と大学特権の剥奪
ドイツ人の去ったプラハ大学では、ベーメン人が中心となった。その彼らの精神的支柱となったのが、ヤン・フスであった。しかし、その異端的教義によりコンスタンツ公会議でフスが焚刑に処せられると、ベーメンではフス戦争が勃発する。これに対処したのは、ハンガリー王にして皇帝だったジギスムント(ヴェンツェルの弟)であった。ジギスムントフス戦争を鎮圧した後、バーゼル公会議にてプラハ大学に与えられていた特権を剥奪している。これにより、大学としてのプラハ大学はいったん終結することとなる。
[編集] 大学再開
[編集] 19世紀における分裂
[編集] 20世紀における分裂と統合
[編集] 戦後のプラハ大学
現在は神学部から医学部まで、17の学部と4万人以上の学生を抱えるチェコ随一の総合大学である。
[編集] 組織
[編集] 学生
[編集] 教員
[編集] スポーツ・サークル・伝統
[編集] 主な出身者
- マックス・ブロート - 作家
- フランツ・カフカ - 作家
- ボフミル・フラバル - 作家
- カール・フェルディナンド・コリ - 生化学者
- ゲルティ・コリ - 生化学者
- ヤロスラフ・ヘイロフスキー - 化学者
- ヤン・パトチカ - 哲学者
[編集] 主な教員
[編集] 外部リンク
- 公式サイト チェコ語
- 公式サイト 英語 (現在調整中)
- 公式サイト 英語 (旧版)
- University history - 画像を含むWord文書
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