ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争( - ふんそう)は、旧ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦。
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[編集] 背景
ユーゴ解体の動きの中でボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して、4月から3年半以上にわたり戦争となった。両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したと言われ、第二次世界大戦後の欧州で最悪の紛争となった。これは日本の教科書でこの紛争の一部を掲載したほどである。
[編集] 戦闘の展開
[編集] 紛争のはじまり
クロアチア戦争をきっかけに、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を求めるボシュニャク人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まった。そのような状況の中、1992年2月29日から3月1日にかけて独立の賛否を問う住民投票が行われた。住民投票は、セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、90%以上が独立賛成という結果に終わる。これに基づいて、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言、4月6日にはECが独立を承認した。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始、翌日にはボスニア・セルビア議会が「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。
[編集] 92~93年 セルビア人勢力の優勢
紛争の開始直後は、その数と装備の質において、セルビア人勢力が優勢であった。ボシュニャク人勢力は装備の質で劣り、クロアチア人勢力は数の面で劣っていた。しかも、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は、必ずしも緊密に連携しているわけではなかったのである。そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧、サラエボを包囲する。クロアチア人勢力は、ヘルツェゴビナ西部の確保に専念、ボシュニャク人勢力は残るサラエボ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジュパなど主要都市を含む3割弱を必死に防衛するという状況になった。国際社会は、セルビアへの制裁、サラエボへの人道支援などを行うが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年中はその状況が続いた。
93年春には、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で対立が生じた。すると、クロアチア人勢力は、セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、セルビア人勢力と同盟を結ぶ。モスタルなどでは、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始された。これにより、ボシュニャク人勢力は一層の苦境に立たされた。
[編集] 94年~95年春 対セルビア人勢力包囲網の構築とその破綻
94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を結んだ。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人・クロアチア人連邦が結成されることも決定された。これは、アメリカによる対セルビア人勢力弱体化への第一歩であった。4月10日から11日にかけては、小規模なものではあるが、NATOによるセルビア人勢力への空爆が実施された。8月5日、セルビア人勢力が国連管理下の武器集積所を襲撃するという事件が起きる。これに対してもNATOによる空爆が行われた。NATOによる空爆に加えて、秋ごろからは、アメリカによるボシュニャク人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。
これにより勢いづいたボシュニャク人勢力は、10月下旬、セルビア人勢力に対して、ビハチ周辺で攻勢に転じる。この攻勢は一時的には成功したが、11月初めには早くもセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。これを支援するため、11月21日および23日にNATOによる3度目の空爆が実施される。繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国連保護軍兵士を人質として拘束するという手段をとった。これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリス・フランスとさらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立、NATOは機能不全に陥る。紛糾した事態は、ジミー・カーター元アメリカ大統領による和平交渉で打開された。これにより、95年1月1日から4ヶ月の停戦が実現した。
[編集] 戦闘の終結
95年春、4ヶ月停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジュパが陥落、サラエボ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。一方、セルビア人勢力とクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた(クロアチア戦争#「嵐作戦」参照)。この間の6月3日、NATOは、国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立、セルビア人勢力による人質作戦への対応を行った。8月28日、サラエボ中央市場に砲撃が行われ、37人が死亡する事件が起きた。この事件をきっかけに、NATOはこれまでにない大規模空爆を実施する。8月30日から9月14日まで(9月2日から4日は一時停止)というこれまでにないものであった。この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ボシュニャク人勢力からの反撃を支える力も失った。これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定した。10月13日には停戦が実現。戦闘は終結した。
[編集] 「民族浄化」
1995年、ボシュニャク人の武装グループがセルビア人居住区のブラトゥナッツを攻撃し、セルビア人の老若男女に多数の犠牲者が出た。ブラトゥナッツの南西10kmに位置するスレブレニツァは当時国連保護軍の指揮下にある安全地区に指定されていたが、NATOが空爆の準備を始めるとセルビア人勢力はこれに対抗し国連軍兵士を捕虜とした。7月6日、ムラジッチ率いるセルビア人勢力はボシュニャク人のセルビア人虐殺に対する報復としてスレブレニツァに侵攻、11日には中心部に進軍した。12日セルビア人勢力はスレブレニツァに居住していたボシュニャク人の男子を一人残らず虐殺。残された女子に対し集団レイプを行った上、一定期間強制収容し出産せざるを得ない状況に追いこんだ。
両地域ではセルビア人とボシュニャク人の間に今なおわだかまりが残っている。
[編集] 和平合意
ボスニア3分割案などによって和平が模索されたが、北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア側への攻撃を含んだ介入によって停戦となった。国際連合による調停で1995年12月に和平が合意(デイトン和平合意、Dayton Agreement)、クロアチア・ボシュニャク人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人のスルプスカ共和国が国内で並立することで戦闘は終息した。両国はそれぞれの主体が独自の警察や軍を有するなど、高度に分権化された。
和平遂行は、民生面を上級代表事務所(OHR)が、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(SFOR)が担当した。軍事面での成果は上がっており、戦後は治安も概ね安定している。
[編集] 関連項目
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