マゼッパ主義
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マゼッパ主義(―しゅぎ、ロシア語:Мазепизмマズィピーズム;英語:Mazeppism)とは、20世紀初頭における、ウクライナの民族主義運動に対するロシア側の蔑称。「裏切り分離主義」とも言われた。ロシア帝国政府、それに敵対するロシアの左派勢力ともにウクライナの自主性は認めず、ウクライナ語の使用やそれによる出版物、結社などを弾圧した。
また、「マゼッパ主義」や「裏切り分離主義」といった名称は、ロシアのウクライナ蔑視の端的な例として挙げられる。政治思想に拘らず、ウクライナ人を蔑む言葉としてもしばしば用いられてきた。
なお、「マゼッパ」という名称に関しては、本来はロシア語に沿って「マゼーパ」とした方が適切であるが、そもそもこの「マゼッパ主義」という語は慣習的な語であるので、原語に照らしての正当性には拘らないこととし、翻訳名は日本語での慣習的な表記「マゼッパ」に従った。
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[編集] 概要
[編集] 背景
18世紀末のポーランド分割以降、ウクライナ民族の生活域は主としてロシア帝国とオーストリア・ハンガリー帝国とに分割併合されていた。後者に併合された西ウクライナ・ハルィチナー地方では、西欧の民族主義運動の影響を強く受け、またオーストリア・ハンガリー帝国の同化政策も比較的緩やかであったため、現代にまで繋がるウクライナ民族主義の基礎が培われることとなった。
一方、ロシア帝国領小ロシアとなった地域では、イヴァーン・マゼーパ(マゼッパ)の敗北以降次第にその自治権の縮小とロシアへの同化が推し進められていた。すなわち、ウクライナ人のロシア化、特に実態はすでに特権階級化していたスタルシナー(本来は選挙で選出されるウクライナ・コサックの長老)のロシア帝国貴族化が進められ、それに平行してロシア人のウクライナへの植民も推進された。ウクライナにはロシア帝国貴族が大地主として君臨し、入植によって都市住民の多くもロシア人となった。もともとその多くが農民やコサックであったウクライナ人は、主として農村に生活することとなった。こうした都市と農村の分断状況は、両者がまるで外国であるかというほどであったと言われる。
都市住民がほぼロシア人とユダヤ人で占められ、ウクライナ人有力者もロシア帝国の貴族となった結果、ウクライナの地方政府の重要ポストは帝政ロシア体制内の人間で占められることとなった。都市に生活する少数のウクライナ人はロシア語を話すようになり、ロシア化していた。ウクライナ人の大多数が農村へ閉じこもった結果、ウクライナ人の知識階級の成長は遅れ、そのため、ロシア帝国領小ロシアでは西欧流の啓蒙主義はウクライナ人の中へ浸透せず、民族主義の盛り上がりは低調であった。 農奴にされたウクライナ人の生活は悲惨なものであったにも関わらず、17世紀にコサックによって活発に行われたウクライナの自治運動は19世紀には嘘のようにしずまっていた。かつてのコサックの英雄の物語は伝えられていたが、それがウクライナ民族主義の大きな潮流を生み出すことには至らなかった。
[編集] 小ロシアへの民族主義の侵入
それでも、19世紀後半になるとロシア帝国領小ロシアへも西欧の民族主義の浸透が見られるようになった。これは、オーストリア・ハンガリー領であった西ウクライナで育ったウクライナ民族主義に影響された運動であった。
小ロシアでの民族主義運動の始まりは、ウクライナにも西欧的な民族主義の担い手となるインテリ階級が育ってきたことの表れであった。また、その背景には1855年に「改革主義者」のアレクサンドル2世が即位したことによりそれまでの超保守主義体制が若干緩和されたことも影響していた。これにより、ウクライナ文化を公然と謳う活動が比較的活発に行えるようになっていた。この時期、ウクライナにはウクライナ語書籍の発行が許され、それまではタブーであった「ウクライナ民族はロシア民族とは別民族である」といった主張も公然と行われるようになった。
なお、この時期には「農奴解放令」が出されており(1861年)、ロシア史上ひとつの転機となっている。この改革はウクライナにも大きな影響を及ぼしたが、それは必ずしも良い影響ではなかった。ウクライナの解放農奴は、解放後に土地を得るために作った借金により身動きの全く取れない状態になることが多かった。
[編集] 帝国の改革とその失敗
アレクサンドル2世の改革路線にも拘らず、ナロードニキなど左派運動の激化やポーランドの独立反乱(1863年~1864年)が発生するなど帝国の国内情勢は紛糾した。このため、 皇帝の自由主義的改革路線は却って国内状況を悪化させているとして変更され、かわって旧来の保守的・国粋主義的な政府が復活することとなった。こうした中で、ウクライナやベラルーシの民族主義は「一体不可分のロシア帝国」にとって極めて危険であると判断された。特に、ロシア帝国領小ロシアとオーストリア・ハンガリー領である西ウクライナとの連帯は、この地域がポーランドとも関連した地方であるということもあり、ロシア帝国にとって恐るべき事態であった。 強固な「ベラルーシ民族主義」というものが育っていなかったということもあり、帝国政府の弾圧の矛先は主としてウクライナへ向けられた。まず、1863年にはウクライナ語による教科書・宗教書の発行が禁ぜられた。演劇やオペラ、文学など文芸においてはウクライナ語の使用が許可されたものの、主だったウクライナ知識人団体は解散させられ、その出版雑誌も廃刊とされた。続いて、1876年には所謂「エムス指令」が発令された。これは、教育や娯楽、新聞・書籍・講演・公演などのメディア、学校や図書館などの公共機関などあらゆるパブリック面からのウクライナ語・文化の排除、及びウクライナ運動活動家の追放を行うもので、これ以後徹底したウクライナ民族への弾圧が行われるようになった。
[編集] ウクライナでの政治運動の発展と糾弾
だが、ウクライナにおける政治運動はこののちも活発さをそがれることはなく、各都市に様々な主張を掲げた政党が結成された。西欧での社会主義や共産主義運動の高まりの影響を受け、ウクライナ民族主義政党の多くは社会主義や共産主義を標榜した。外国や他民族によって虐げられてきたウクライナ民族の救済というテーマは、下層民の救済をひとつの大きなテーマとして掲げる社会主義や共産主義思想に、一見して馴染みやすいものであった。この時期に誕生した政党の中には、のちのウクライナ政府機関ウクライナ中央ラーダの中核政党のひとつとなるウクライナ社会民主労働党も含まれていた。
1905年の日露戦争敗戦は、ウクライナにも大きな影響を及ぼした。同年1月に起こった第一革命(血の日曜日事件)を端緒にして各地にストライキや暴動が発生したが、その中でもウクライナのオデッサ港で起きた戦艦ポチョムキンの反乱は、帝国政府に大きな危機感を抱かせた。そのため、皇帝は国民に市民権を与え、ドゥーマの開設を約束した。戦艦ポチョムキンの反乱で蜂起した水兵たちの多くは、ウクライナ人であった。その後防護巡洋艦オチャーコフ上で発生した巡洋艦オチャーコフの反乱も、ウクライナ人水兵によって起こされた同様の事件であった。
ウクライナに対しては、「エムス指令」が撤廃された。その結果、ウクライナ語新聞の発行が盛んに行われ、結社も多く作られるようになった。また、旧来の「小ロシア」という名称は正式に「ウクライナ」という名称に見解が修正された。ウクライナ語が「ロシア語の小ロシア方言」であるという見解も修正が試みられ、独自の言語としてのウクライナ語が認められるようになった。
しかしながら、すぐに始まったドゥーマの保守化とそれに伴う帝国政府の反動化により、ここで誕生した結社は解散させられ、ウクライナ語出版物も姿を消していくこととなった。さらに、ロシアの左派はウクライナの民族主義を「裏切り分離主義」または「マゼッパ主義」と名付けて批判し、ウクライナの独自性を否定した。「マゼッパ」という言葉は「ロシア民族最大級の裏切り者」を指す名前であり、これはロシア人のウクライナ人蔑視の代表的なものでもあった。また、「裏切り分離主義」という名称は、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの三国・三民族は本来助け合うべき兄弟であるのに、長兄であるロシアを「裏切って」ウクライナの分離を図る主義である、という非難から来ていた。また、ロシアの左派勢力はスケープゴートとしてウクライナ民族主義の非難を行ったとみなすこともできる。
[編集] ウクライナの独立とその敗北
ロシア領内でのウクライナ民族主義はこのような徹底した弾圧により成熟を許されなかった。そのため、1917年のロシア革命後にウクライナ国民共和国などがつくられた際も、その担い手たちは経験の浅い「若手」ばかりであった。政治手腕の未熟な若いインテリで組織された中央ラーダは老練な列強の干渉に耐え切れず、ウクライナの独立も夢と消えることとなった。
ウクライナでは、それまで民族主義・社会主義・共産主義が結びつけられてきた結果、この時期にはその複雑な様相が顕在化することとなった。各派が互いに対立した結果、ロシア内戦の行なわれた時期にはウクライナでも内戦が生じ、国土は荒廃した。
社会主義を標榜するウクライナ社会民主労働党など多数の政党が合同して形成された中央ラーダは、ドニエプル・ウクライナ(中部ウクライナ)にウクライナ国民共和国を建国して民主的な国家の運営を行おうとした。中央ラーダはロシアで発生した暴力による十月革命を否定し、暴力による一党独裁を目指すロシアのボリシェヴィキを厳しく非難した。
一方、ウクライナのボリシェヴィキ派であるボロチビストは、ウクライナではロシアからの輸入による革命ではなくウクライナ民族による自発的な共産主義の建設が行われなければならないとし、ロシアのボリシェヴィキとの間に対立を生じた。
西部のハルィチナー地方に成立した西ウクライナ国民共和国は主義を同じくするウクライナ国民共和国との合同を目指したが、ポーランド民族主義を掲げる新興国家ポーランド共和国との間に武力を伴う激しい対立を起こした。ポーランドは、ハルィチナー(ポーランド語名:ガリツィヤ)のポーランドへの併合を主張した。
ウクライナはかつてポーランドに支配されていた経緯があり、ウクライナ民族主義ではポーランドはウクライナ民族の圧制者のひとつであり、民族の敵として非難していた。しかし、ウクライナ国民共和国は急進的な共産主義者であるボリシェヴィキへの憎悪から民族の敵であったはずのポーランドとの共同戦線を選択した。それに対し、西ウクライナ国民共和国は民族の敵であるポーランドへの憎悪からボリシェヴィキとの合同を選択した。ウクライナ国民共和国は、主としてボリシェヴィキとの間に戦争(ウクライナ・ソヴィエト戦争と呼ばれる)を行なっていた。一方、西ウクライナ国民共和国は主としてポーランドとの間に戦争(ウクライナ・ポーランド戦争と呼ばれる)を行なっていた。このように、局所的に戦闘状態に陥った相手に対する戦術的な目標によって合同相手を選択した結果、ウクライナ東西の合同は霧散し、結局はボリシェヴィキとポーランドによるウクライナの分割統治を生じさせることとなった。
ネストル・マフノのウクライナ革命派は、ウクライナ民族主義を否定しボリシェヴィキと合同してウクライナ国民共和国への激しい攻撃を行なった。しかし、ボリシェヴィキとの間に対立を生じ、赤軍によって虐殺された。
ウクライナへ侵攻した白軍(白衛軍)は、「一体不可分の大ロシア」を標榜する帝政派で、ウクライナ民族主義を掲げるウクライナ国民共和国や「ロシア民族の敵」ポーランドとの共同戦線を拒んだ。その結果、赤軍によって個別に撃破されることになった。政策の誤りに気づいたピョートル・ヴラーンゲリは、ウクライナに多かった農民を重視した政策をとる新国家を建設しようとしたが、時すでに遅く赤軍の武力によりロシア軍は壊滅させられた。
[編集] ソ連以降
「マゼッパ主義」という表現は、ソ連時代にもウクライナ民族主義に対して用いられた。この場合は、ウクライナ民族主義が「一体不可分のロシア」の敵であるというのみならず、あらゆる民族主義はソヴィエト政権の目指す共産主義の敵であるという観念に基づいたものでもあった。
ソ連中期以降、ウクライナの文化や歴史を再認識する作業が公式に認められるようになった。時期によってその進捗状況は異なるものの、ソ連末期ペレストロイカの時期には研究は大幅に進んでいた。イヴァーン・マゼーパの再評価も行なわれ、ウクライナでは必ずしもマゼーパを「裏切り者」とはみなさないようになった。この背景には、長年にわたりマゼーパを代表にウクライナ人が日和見主義の裏切り者として侮蔑されてきたという歴史があった。
一方、ロシアではマゼーパを復権させる必要性もないので、現在でもマゼーパを「民族の裏切り者」とみなす傾向は強い。しかしながら、「マゼッパ主義」という言葉は古い言葉であるので、現在ではあまり使われなくなったようである。