マルティン・ボルマン
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マルティン・ボルマン(Martin Bormann, 1900年6月17日 - 1945年5月2日)は、ヒトラーの秘書。のちにナチ党官房長となったが終戦時に自殺した。
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[編集] プロフィール
[編集] 生いたち
ドイツ中部のザクセン=アンハルト州のハルバーシュタット(de)近郊のヴェーゲレーベン(Wegeleben)で、元陸軍軍楽隊隊員で郵便職員の息子として生まれた。メクレンブルク州の農場で働くために学校を中退した。
[編集] 軍人として
第一次世界大戦では砲兵連隊に従軍。敗戦後、右翼の義勇軍に参加し、1923年3月フランス占領軍に対する抵抗の英雄であるアルベルト・レオ・シュラゲターを裏切ったヴァルター・カドー殺害で、後にアウシュヴィッツ強制収容所の所長となるルドルフ・フェルディナンド・ヘスと共に懲役一年を宣告される。釈放後の1925年にナチ党に入党し、財務面で功績を認められる。1928年にはチューリンゲン管区指導者に任命され、ナチス党幹部への道を歩み始めた。同年には党財務責任者にも選任された。ベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘の改築でヒトラーに認められる。
[編集] ヒトラーの個人秘書
1933年にヒトラーの政権掌握と同時に副総統ルドルフ・ヘスの副官としてナチ党副官房長に就任。第二次世界大戦勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで、国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、1941年5月10日に副総統ヘスが独断で和平交渉のためにイギリスへ飛び去った後、ボルマンはヘスの後任として党官房長に任命され、大きな影響力を得るに至る。以後ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶ。上司には媚びへつらう一方で部下には冷酷な態度を取ったため、党幹部や国防軍上層部からも疎まれた。
ドイツの敗色が濃くなってくると、ボルマンは次第に権力欲を顕にし、1945年3月には和平交渉に走ったヒムラーから指揮権を剥奪させた。4月22日、ヘルマン・ゲーリングに「総統はかなり精神が衰弱しているので代りに指揮をとるように」と打電。それを受けて翌23日にゲーリングはヒトラーに指揮権の委譲を要求する。結果、ゲーリングは失脚した。これはボルマンの意図した通りであった。
[編集] ヒトラーの遺言執行人
4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして次期ナチス党首に任命して自殺した。深夜になってボルマンはヒトラーの主治医であるSSの医師ルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガーと共に総統地下壕を去った。彼が残した最後の日記には、『5月1日 脱出を試みる』と記されていた。しかし両名とも生きては帰らなかった。
[編集] 自殺
5月1日深夜から2日未明にかけて総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋で両名の遺体を目撃したという証言が戦後複数発表された。ニュルンベルク裁判では欠席のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所は彼の死亡を宣言した。しかし、遺体が見つからなかったので、ブラジルへ逃亡したという噂がまことしやかに語られるようになった。
1973年になって、ヴァイデンダム橋から遠くないレアター駅で見つかった二体の人骨はシュトゥンプフェッガーとボルマンであると公式に確認された。彼らが脱出に失敗し、青酸により自殺したことは確実である(遺体の口からガラス片と青酸の痕跡が発見されている)。1973年4月にドイツの法廷でボルマンの死が公式に確認された。また、1998年には家族の要請でDNAテストが行われ、人骨がボルマンのものであることが科学的に証明された。その後遺骨は荼毘に付され、バルト海に散骨された。
[編集] 家族
彼は、ゲルダ・ブーフと結婚し、10人の子供がいた。ゲルダは1946年に癌で死亡。子供たちは孤児院で養育される。
[編集] 文献
- ハリー・パターソン(著)、『ヴァルハラ最終指令』、ボルマン生存説をテーマにした小説、早川書房、1979年
- 檜山良昭(著)、『ナチス副総統ボルマンを追え』、東京書籍、1993年、ISBN 4-487-79152-9