マルメディ虐殺事件
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マルメディ虐殺事件(マルメディぎゃくさつじけん、Malmédy massacre)は、1944年のバルジの戦いの最中に発生した武装親衛隊による戦争犯罪。
1944年12月17日、ドイツ軍は連合軍に対し、ルントシュテット攻勢(連合国側の呼称「バルジの戦い」)として知られる反攻作戦を展開中であった。先鋒のパイパー戦闘団がベルギーのマルメディとリヌーヴィルの間で米第285砲兵観測大隊に遭遇した。小戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、捕虜の約150人が武装解除され後方に送られるため十字路の近くの野原に立たされた。ヨーヘン・パイパー親衛隊中佐と彼に率いられた部隊はそのまま進軍を継続した。
一人の親衛隊将校がピストルを引き抜き、最前列に立っていた衛生兵を撃ち、次に隣に立っていた兵士を撃った。他の親衛隊員達も機関銃で銃撃に加わった。なぜそのような事態が発生したかははっきりしない。親衛隊の士官による射殺命令があったという記録は存在しない。東部戦線では両軍において捕虜の射殺は一般的であったが、西部戦線においては見られなかった事態である。と俗に言われるが、実際には連合軍もしばしば捕虜の殺害を行っている事実が知られている。
捕虜の多くは近くの森に逃げ、約72から84人が死亡した。彼らの死体はそのまま放置された。アメリカ軍の偵察部隊がその夜虐殺現場を発見し、ニュースは連合軍内に素早く伝わった。アメリカ軍は1945年1月13日に虐殺が発生した地点を奪還し、1月14日と15日に遺体が回収された。
[編集] 裁判
パイパー戦闘団の内の武装親衛隊員は逮捕され、1946年5月にマルメディでの殺人容疑で裁判が行われた。