ヨアヒム・パイパー
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ヨアヒム・パイパー(Joachim Peiper, 1915年1月30日 - 1976年7月13日)は、ドイツの軍人。武装親衛隊の戦車部隊の士官。最終階級は親衛隊大佐。「ヨーヘン」Jochen の愛称で呼ばれた。
パイパーはベルリンで軍人家庭に生まれた。大学卒業後1935年に親衛隊特務部隊に志願。ゼップ・ディートリヒは彼を「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」(略号:LSSAH)に配属した。彼は1938年に同連隊の第11中隊長となる。同連隊は第二次世界大戦にポーランドに出陣した。
1940年、西方電撃戦で第1級鉄十字章を授章。1941年、LSSAH連隊は旅団に拡大。LSSAH 旅団と共にバルカン、ソ連と転戦する。1942年に LSSAH は、師団に拡大する。1943年にパイパーは親衛隊少佐に昇進、第2SS装甲擲弾兵連隊第3大隊長に任じられる。2月のハリコフ攻防戦で騎士鉄十字章を授章し、12月にはSS第1戦車連隊長(ドイツ軍最年少の連隊長)に任じられる。1944年1月27日に柏葉付騎士鉄十字章を授章し、同時に親衛隊中佐に昇進。6月の連合軍のノルマンディー上陸作戦直後、SS第一装甲師団 LSSAH はカーン戦区に投入され、イギリス軍と激戦を繰り広げる。特に前線突破を目指す連合軍のグッドウッド作戦では112高地で巧みな防衛戦を敢行、80両もの戦車を撃破し、連合軍を敗退させる。しかし、ファレーズで包囲され、脱出し、ドイツ本国で部隊を再編成する。同年12月の所謂バルジの戦いでは先鋒部隊として米軍陣地を突破することを期待され、特別編成のパイパー戦闘団(SS第1戦車連隊のIV号戦車・パンター戦車計約70両、第501SS重戦車大隊第1・第3中隊のティーガーII戦車20両の他、SS第2装甲擲弾兵連隊第3大隊、SS第1装甲工兵大隊第3中隊、SS第1装甲砲兵連隊第2大隊、空軍第84突撃高射砲大隊から成る戦闘団)を指揮し、アントワープ攻略を目指す。この時、パイパー指揮下の部隊が捕虜のアメリカ兵多数をマルメディで銃殺する(マルメディ虐殺事件)。結局パイパーは米軍の頑強な抵抗と燃料不足、友軍との連携不足により米軍に包囲され、重装備を廃棄して撤退する。1945年1月11日に柏葉剣付き騎士鉄十字章を授章する。1945年に入ると、SS第一装甲師団はオーストリアに迫るソ連軍に反撃すべくハンガリーに送られ、終戦まで同地からオーストリアにかけてソ連軍と戦う。終戦によりザンクト・ペルテンで師団ごとアメリカ軍に降伏し、武装解除を受ける。
第二次世界大戦後、パイパーはバルジの戦いにおけるマルメディ虐殺事件への関与の疑いで他の武装親衛隊員と共に裁判にかけられ、絞首刑による死刑が宣告された。
マルメディ虐殺事件の被告の多くは死刑から減刑され、懲役刑に服することとなった。パイパーは11年6ヶ月の刑期の多くを独居房で過ごし、1956年12月31日に仮釈放された。
パイパーは釈放後、偽名でフランス・オート=ソーヌ県のトラヴェスに家族と隠遁し、そこで翻訳者として生活した。しかし、身元が露見し、フランス政府から1976年7月14日までに出国を命じられ,家族を避難させる。1976年7月13日の夜、自宅に火炎瓶が投げ込まれ、パイパーは殺害される。実行犯は起訴されなかったが、フランス共産党活動家の犯行が疑われた。
1965年に製作された米映画『バルジ大作戦』の主人公のドイツ軍戦車部隊指揮官ヘスラー大佐のモデルはパイパーである。
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