マレーネ・ディートリッヒ
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マレーネ・ディートリッヒ(Marie Magdalene "Marlene" Dietrich, 本名:マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ、1901年12月27日 - 1992年5月6日)は、ドイツ・ベルリン出身の女優、歌手。通称はマルレーン。100万ドルの脚線美と大ヒット曲『リリー・マルレーン』で有名。この曲は原題 "Lili Marleen" が彼女の通称"Marlene" と同音なので、"Lili Marlene" として歌ったものである。
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[編集] 経歴
1901年、ドイツの中流貴族の家庭に生まれる。18歳で国立ベルリン音楽学校に入学してバイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家を断念。
1921年:マックス・ラインハルトの演劇学校に入学、翌年には『ナポレオンの弟』で映画デビュー。
1924年、助監督のルドルフ・ズィーバーと結婚。同年12月には娘マリアを出産している。ドイツに別れて住むことになるズィーバーとは離婚しなかった。
ベルリンの舞台に立っていた所をジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、1930年に『嘆きの天使』に出演、退廃的な美貌、セクシーな歌声、その脚線美で国際的な名声を獲得。 同年、パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡り、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー。(『モロッコ』は日本語字幕映画の第一作品である。)スタンバーグとのコンビで黄金時代を築く。
1934年の『西班牙狂想曲』がヒットしなかったのを最後にスタンバーグ監督とのコンビを解消、しばらく低迷する。ヒトラーはディートリッヒがお気に入りだったようで、ドイツに戻るように要請したが、それを断って1939年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツでは彼女の映画は上映禁止となる。 1940年代からは西部劇やブロードウェイの舞台にも立って活躍した。
1943年からはUSO(米軍サービス機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り、反ナチ運動にも参加。戦後、その功績によりアメリカからは自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された。この活動のため、年配のドイツ人の中にはマレーネを嫌う人もいる。
1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。1958年からはバート・バカラックと組んでいる。1970年と1974年には日本でもコンサートを行った。1979年、コンサート中に足を骨折して活動を中止せざるをえなくなる。引退後はパリに隠棲。引退から時期がたってもファンレターは絶えず、『パリ市。マレーネ・ディートリッヒ様』と書くだけで手紙が届いたと言う。引退後の姿はまったく謎に包まれており、人々興味の対象となった。ドイツの大衆紙『ビルト』がある老婆写真を「現在のマレーネ・ディートリッヒだ」とスクープを出したことがあるが、彼女の親族によって否定された。
1992年5月2日にパリで死去。死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。亡くなる前の12年間は寝たきりであったという。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われその後、遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われた。その遺骸は1992年、彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」と命名された。
[編集] 主な出演作品
- 嘆きの天使(1930年)
- モロッコ(1930年)
- 間諜X27(1931年)
- ブロンド・ヴィナス(1932年)
- 上海特急(1932年)
- 恋のページェント(1934年)
- 西班牙狂想曲(1935年)
- 真珠の首飾(1936年)
- 天使(1937年)
- 鎧なき騎士(1937年)
- 砂塵(1939年)
- 焔の女(1941年)
- スポイラーズ(1942年)
- 男性都市(1942年)
- 狂恋(1947年)
- 異国の出来事(1948年)
- 舞台恐怖症(1950年)
- 八十日間世界一周(1956年)
- 黒い罠(1957年)
- 情婦(1957年)
- ジャスト・ア・ジゴロ(1978年)
[編集] 関連項目
- ディートリヒ
- グレタ・ガルボ
- アドルフ・ヒトラー
- エディット・ピアフ:シャンソン歌手。パリでディトリヒと親友になる。
- ズビグニェフ・ツィブルスキ:俳優『灰とダイヤモンド』に主演。ディートリヒの友人
- リリー・マルレーン
- 嘆きの天使賞:ベルリン映画祭の賞の一つ。
- マレーネ・ディートリッヒ広場
- ベルリン
- 淀川長治