ラウル・ボーセル
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1982 - 1983 |
所属チーム | マーチ, リジェ |
出走回数 | 30 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1982年南アフリカGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1983年南アフリカGP |
ラウル・ボーセル(Raul de Mesquita Boesel, 1957年12月4日生 - )は、ブラジル・パラナ州クリチバ市出身のレーシングカードライバーである。
目次 |
[編集] 略歴
機械工学を学び、学位を取って後にヨーロッパでのレースキャリアを始めるという珍しい経歴を持つ。
[編集] ブラジル時代
1974年に地元クリチバでカートを始め、翌年にはカートのクリチバ選手権を制した。
1975年以降は、グループCのブラジル国内選手権に参戦し、1979年には同年初開催のストックカー・ブラジル選手権に出場し、ランキング4位で終えるとともに敢闘賞を得ている。
[編集] ヨーロッパ
1980年にイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード1600に参戦し、27戦中9勝を挙げランキング2位、、翌1981年にはイギリスF3にステップアップした。同年の選手権では3勝を含む12回の表彰台を得てランキング3位で終え、11月にはF1チームのマクラーレンをテストし、1982年にマーチからF1デビューを飾った。
1983年にはリジェに移籍するが、結果としてこの2年間では入賞もなく、結果を残すことなくこの2年限りでF1を後にした。F1での最高位はロングビーチで開催された1983年のアメリカGPで記録した7位である。
[編集] 様々なカテゴリへの参戦
1984年には一時ブラジルに戻り、南米F2選手権に参戦、翌1985年よりチャンプカーへの参戦を開始した。
1985年のインディ500では、この年以前にオーバルコースを走ったことがなかったにも関わらず、新人の中で最速タイムを記録している。
1986年もチャンプカーで好走を見せたが、1987年には世界スポーツカー選手権に移り、ジャガーから参戦。このカテゴリではいきなり5勝を挙げ、この年のタイトルを獲得した。ジャガーとしても、これは同選手権における初タイトルであった。翌1988年にはデイトナ24時間レースにやはりジャガーを駆り参戦し、チームメイトのマーティン・ブランドル、ジョン・ニールセンとともに同レースを制した。
この1988年からはチャンプカーにも復帰し、翌年のインディ500では3位に入賞した。1991年にはル・マン24時間レースをジャガーで2位で終えると同時に、未勝利ながらチャンプカーをシーズンランキング5位で終えた。
その後、チャンプカーには1997年まで留まり、1998年からはIRLに移籍し、2002年シーズンまで戦った。
2003年からはブラジルに戻り、ストックカーに「復帰」し、復帰初年度はわずか5戦の参戦ながら、カンポグランジで開催されたレースではポールポジションを獲得するとともに2位表彰台を獲得した。2005年限りでドライバーから引退した。
[編集] 引退後
ドライバーとして引退して以降は、多様なカテゴリに参戦した経験を活かしてモータースポーツ全般についての解説者として活躍している。
[編集] ラウル・ボーセル・サーキット
チャンプカーやスポーツカー選手権での活躍から、出身地のクリチバ市近郊にあるクリチバ・サーキット(Autódromo Internacional de Curitiba)には「ラウル・ボーセル・サーキット(Circuito Raul Boesel)」という名前が付けられている。ブラジル国内のネルソン・ピケ・サーキットやアイルトン・セナ・サーキットなどと異なり、正式名称がボーセルの名に変更されたわけではないが、この名は公式に認められている異称という扱いとなっている。