硫黄島 (東京都)
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硫黄島(いおうとう、いおうじま、Iwo Jima)は、硫黄列島中最大の、東京都小笠原村に属する東西8km、南北4kmの島。一番標高の高い地点は摺鉢山(169m)。
太平洋戦争の激戦の地であったこの島は、以前は「いおうとう」と呼ばれていたが、戦時中米国内で「いおうじま」と呼ばれ、戦後も長く米国の統治下におかれていたことから、今日では「いおうじま」と呼ばれることが多くなっている。
1945年度ピューリッツァー賞 写真部門を受賞した『硫黄島の星条旗』(ジョー・ローゼンタール撮影)という写真でも知られる。これは太平洋戦争中の1945年2月23日、硫黄島攻防戦においてアメリカ海兵隊が摺鉢山に星条旗を掲揚した写真。
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[編集] 地形
数千年前の海底火山の活動で島ができ、現在も急速な隆起が続いている。活火山の火山島であり、島の至る所に地熱、温泉がある。硫黄島の南北には、それぞれ北硫黄島と南硫黄島があり、どちらも島のつくりは硫黄島と同じである。成分の硫黄が島名の由来。島名の呼び方は、戦前は主に陸軍の間では(いおうとう)、海軍の間では(いおうじま)と呼ばれることが多かったが、米軍が海軍側の呼び名を取り入れたため、現在は(いおうじま)の呼び方が定着している。本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島から、それぞれ1,200km~1,300km程度の等距離にある。
2006年11月11日と12月27日に、気象庁が陸域観測技術衛星「だいち」の合成開口レーダーを使い硫黄島を観測したところ、11月11日観測時と比べ、島が20センチ隆起していることが発見され、火山噴火予知連絡会が硫黄島の隆起活動が活発し小規模な水蒸気爆発の危険性を発表した。[1]気象庁発表参照。
ちなみに、硫黄島は過去数百年の間、平均で年間約25センチのスピードで隆起している。
[編集] 歴史
戦前の硫黄島は、東京都小笠原支庁硫黄島村という行政単位であり、小笠原諸島内でも有数の集落があった。昭和18年6月の調査によれば、硫黄島村の人口は、192戸1018人(男533人、女485人)である。島北部には元山部落、東部落、西部落、南部落、北部落、千島部落の6つの集落があり、元山部落には硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心となっていた。また、島には父島から派遣された警察官1名が駐在していた。
島の交通手段は、月1回の郵便船で母島へ渡り、そこから船で東京へ向かうルートと、2ヶ月に1度の日本郵船の定期船「芝園丸」で東京へ直行するルートがあった。
島内の産業は、硫黄採取、サトウキビ栽培、コカイン栽培、漁業等で、これらの産業は硫黄島産業株式会社が取り仕切っており、島民の大半は同社に直接、間接的につながっていた。当時の島民の証言によれば、「きちんと稼げていた」とのことであり、絶海の孤島ではあったが、島民の経済状態は悪くなかったようである。 なお、島内での農業生産は困難のため、米は本土からの輸入に頼っていた。
硫黄島南部は戦前から海軍省によって要塞地帯に指定され、一般島民の立ち入りが制限されていた。太平洋戦争が始まり、昭和19年に入ると大本営はマリアナ諸島の防備強化と合わせて小笠原諸島の防備強化を開始し、陸軍部隊(「伊支隊」指揮官:厚地兼彦大佐、4883名)と海軍部隊(「硫黄島警備隊」指揮官:和智恒蔵中佐、1362名)が硫黄島に進出した。この段階では島民も在島していたが、陸海軍部隊は上記要塞地帯に指定された島南部に展開したため、少数の島民が部隊に行商に出かけるほかは、部隊と島民の接触は少なかった。
参謀本部は1944年(昭和19年)5月22日に、小笠原防備をさらに増強することを目的として第109師団を創設し、栗林忠道中将を師団長に任命し、栗林中将は6月8日に硫黄島に着任した。6月15日、アメリカ軍はサイパン島上陸とあわせて硫黄島を空襲、翌日の空襲と合わせて島内の各部落はほぼ焼失した。その後も空襲と艦砲射撃が続いたため、島民に対しては6月下旬に父島経由で内地へ疎開する命令が内示され、3回(7月1日、7月12日、7月14日)にわけて島民の疎開が行われ、軍に軍属として徴用された者(約230名)を除く全島民が硫黄島を離れ、島民が生活を営んだ硫黄島村の歴史は幕を閉じた。
その後、1945年2月~3月にかけて行われたこの島の攻防(硫黄島の戦い)で、日本軍2万129人、米軍2万8686人の戦死傷者を出す大激戦が繰り広げられた。そして3月17日、硫黄島は米軍に占領された。 摺鉢山に米軍歩兵によって星条旗を掲げる際に撮った写真は、米バージニア州アーリントン国立墓地(米国の戦没者専用墓地)にある「海兵隊記念碑」のモデルにもなっている。 終戦後、島はアメリカ合衆国の施政権のもとにおかれ、1960年代までアメリカ空軍基地として核兵器保管などに用いられた。1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還されたが、島内の地下には無数の不発弾や一万柱を超える日本人兵士の遺骨が残され回収も困難な状態であり、いまだ島民の帰島は実現していない。旧島民や遺族、それに戦没者の遺族などの一般の人が硫黄島に上陸できるのは、戦没者の慰霊祭の時のみである。
1985年2月19日、硫黄島の米軍上陸40年目に当たる日に、「名誉の再会」と呼ばれる行事が行われた。参加したのは硫黄島戦に参加した両軍の兵士、場所は米軍が上陸した二ッ根浜である。会場中央には両面に文が刻まれた石碑が建てられ、日本文が刻まれた山側には日本人参加者が、英文が刻まれた海岸側には米国人参加者が整列した。除幕と献花が行われたあと、参加者たちは碑に向かって歩み寄り、握手・抱擁を交わし合った。 その後、1995年3月には50周年記念、2000年3月には55周年の日米合同慰霊祭がこの碑の前で行われている。
[編集] 現在の島
現在は海上自衛隊管理の航空基地が設置され、通常一般の人は島に立ち入ることはできないが、無人島ではない。島に一般住民がおらず、周りにも住民が住んでいる島は存在しないため、硫黄島通信所にてアメリカ海軍の空母艦載機による夜間離発着訓練が行われているほか、航空自衛隊の各種実験飛行といった、日本本土では実施できないような軍事利用ができる貴重な島である。日本で唯一、陸・海・空の三自衛隊の統合的作戦演習が可能な場所でもある。なお、海風による浸食が激しいため、基地施設の改修が常時行われており、その作業に従事する建設業者の住宅施設が存在する。また、国土地理院と気象庁職員が定期的に来島して火山観測を行っている。
東京とグアム島を結ぶ航空路上に存在するため、時々、計器の故障等の理由で、グアム島、オセアニアから日本、韓国方面に向かう民間機の緊急着陸が行われる事がある。そのため、軍事用飛行場にも関わらず、国際航空運送協会の3レターコードが設定されている。2007年3月6日の慰霊訪問で初の民間旅客機によるチャーター便が運行された。これは遺族の要望によるもので日本航空が行い使用機体はMD-90を使用した。ただし、燃料補給ができないため燃料を往復分積むため110名前後しか搭乗できなかった。
硫黄島には港はなく、船積みのボートが着けられる程度の波止場しか存在しない。その関係で、大型船舶は少し沖合いに停泊せざるを得ない。そのため、航空機では運べないような重量物は、おおすみ型輸送艦を使い、艦載のLCACで揚陸させる。航空燃料や軽油などは、沖合いに停泊した民間タンカーから、長大ホースを伸ばして補給を行う。 硫黄島への宅配便・郵便物は通常の硫黄島の住所を記載しても届かない。隊員の家族の仕送りや外部から業務用の資材や郵便物などは、自衛隊が指定した基地へ一括搬入することになる。
なお、上記にも書いたように、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族などの一般の人の硫黄島上陸が許可される場合もある。慰霊祭のときは、小笠原諸島父島から、小笠原海運の旅客船「おがさわら丸」で島に向かい、船積みのボートで島に上陸する。また、『硫黄島からの手紙』の映画撮影も行われたが、その際は東京都の特別許可によるものであり、一般民間人の上陸は慰霊者や建設関係者以外禁止されている。
[編集] 硫黄島航空基地
硫黄島飛行場 | |||
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IATA:IWO-ICAO:RJAW | |||
概略 | |||
空港種別 | 軍用 | ||
運営者 | 海上自衛隊 | ||
開港日 | ○○○ | ||
受け持ち | 防衛省 | ||
計器着陸装置 | 設置済 | ||
海抜 | 370フィート | ||
位置 | 北緯24度47分12秒東経141度19分27秒 | ||
滑走路 | |||
方向 | ILS | m×幅 | 表面 |
07/25 | YES | 2650×60 | 舗装 |
平行誘導路(緊急滑走路) | |||
方向 | ILS | m×幅 | 表面 |
07/25 | YES | 2650×30 | 舗装 |
幕僚機関 |
---|
海上幕僚監部 |
主要部隊 |
自衛艦隊 |
横須賀地方隊 |
舞鶴地方隊 |
大湊地方隊 |
佐世保地方隊 |
呉地方隊 |
教育航空集団 |
練習艦隊 |
海自の群一覧 |
海自の隊一覧 |
主要機関 |
海自幹部学校 |
海自幹候学校 |
術科学校 |
海自補給本部 |
その他 |
海自の基地一覧 |
海自の装備品一覧 |
硫黄島航空基地(いおうじまこうくうきち)は、硫黄島内にある海上自衛隊の飛行場。 運営者は海上自衛隊であるが、航空自衛隊の航空機もこの基地を使用する。航空自衛隊における名称は硫黄島分屯基地。陸上自衛隊は部隊を派遣しているが、分屯地として扱われてはいない。
基地にある滑走路は2650×60の1本のみだが、2650×30の平行誘導路が、トラブルによる主滑走路閉鎖時に離着陸の可能な緊急滑走路として整備されている。
- 海上自衛隊は、航空基地施設の維持及び飛来する飛行機に対する航空管制・給油・救難・司法警察業務(警務隊担当)など(救難活動に小笠原諸島の急患輸送も含まれる)。また、硫黄島駐留部隊には直接関係ないが、毎年夏に、海上自衛隊掃海部隊が、硫黄島近海で実際に機雷を撒いて掃海訓練を行っている。
- 航空自衛隊は、航空基地を使用している。補給のため、本土から本島や南鳥島への輸送機の運用、各種実験飛行、演習などを行っている。
- 陸上自衛隊は、太平洋戦争中の砲弾処理などの不発弾処理。
また、東京防衛施設局(防衛施設庁)の職員が施設整備工事を担当している。 自衛隊施設の一部は、日米地位協定による合意により、駐留軍(米軍)に提供が可能であり、日本本土における夜間離着陸訓練(NLP)の実施による騒音負担軽減のため、米軍艦載機によるNLPが実施されることがある。
他には、医官が常駐し、上記関係者に医療活動を施している。
空港情報 (RJAW) |
空港情報(worldaerodata.com) | 定時航空気象(METAR) | 飛行用飛行場予報(TAF) | 定時航空気象 |
[編集] 関連項目
- 硫黄島通信所(在日米軍施設)
- 硫黄島の戦い
- 火山列島
- イオー・ジマ(アメリカ海軍艦艇)
- 父親たちの星条旗 - アメリカ側の視点から捉えた硫黄島の戦いを描いた映画作品。
- 硫黄島からの手紙 - 日本側の視点から捉えた硫黄島の戦いを描いた映画作品。
- 遠い島 (テレビ番組) - 朝日放送制作・77年度ギャラクシー大賞受賞。日米両国の遺族や元兵士の取材を基に製作された。
[編集] 外部リンク
- 硫黄島(東京都小笠原村)
- 硫黄島全景写真(平成14年版防衛白書)
- 硫黄島航空写真(Yahoo)
- 硫黄島衛星写真(Google)旧日本軍滑走路や海岸に沈没船が写っている。
- 硫黄島(海域火山データベース 海上保安庁海洋情報部)
- 硫黄島(気象庁 伊豆・小笠原諸島の火山)
- 硫黄島活用案(神奈川県大和市ホームページ)
- 硫黄島探訪
この「硫黄島 (東京都)」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(関連: ウィキポータル 軍事/ウィキプロジェクト 軍事/ウィキプロジェクト 軍事史) |