ラーマ5世
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基本情報 | |
正式名称 | チュラチョームクラオ王 |
タイ語表記 | พระบาทสมเด็จพระจุลจอมเกล้าเจ้าอยู่หัว |
英語表記 | King Chulachomklao |
別名・通称 | チュラーロンコーン大王 (Chulalongkorn the great) |
称号 | ラーマ5世 (รัชกาลที่ ๕) |
王朝・代 | チャクリー王朝5代目 |
統治地域 | 現在のタイ王国 |
誕生 | 1853年9月20日(タイ仏暦2396年) |
即位期間 | 1868年 – 1910年 (タイ仏暦2411年 – 2453年) |
その他の呼称 | 歓喜大王 (พระปิยมหาราชเจ้า)、 ピヤマハーラート王、 チュラロンコン王 |
前の王 | ラーマ4世 |
次の王 | ラーマ6世 |
ラーマ5世(Rama V、1853年9月20日 - 1910年10月23日)は本名をチュラチョームクラオ王という。タイ王国の現王朝チャクリー王朝の王で5代目。
即位するとすぐに欧米に視察旅行をし、タイの立ち後れを実感。チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。幼名をチュラローンコーンと言うため、外国ではチュラーロンコーン大王(King Chulalongkorn the Great)が名前としてよく使われる。タイ三大王のうちの一人で、今でも国民から人気が高く、肖像画が首飾りやポスターになったり、像が仏壇に置かれたりしている。1999年にはアメリカの『タイム』誌で、「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の1人にタイ人から唯一選ばれた。
目次 |
[編集] チャクリー改革の内容
- 公然と行われていた奴隷売買を長年かけて廃止した。このためダムロン親王から、歓喜大王を献名された。アナンタサマーコム宮殿にも奴隷解放の絵が残っている。
- 各地の王を廃止し、中央集権国家を作り上げた。
- 官僚制を導入し行政を効率化した。
- 議会制度の前進となる国政協議会と枢密院を設置した。
- 学校教育を開始した。
- ラーチャダムヌン道路とその周辺を整備し、バンコクからナコーンラーチャシーマーまで列車を通した。
- 電話業務を開始した。
[編集] 対外情勢
そのころ、ミャンマー(ビルマ)とマレーシアはイギリスに占領され、ベトナムがフランスに占領されていた。タイも狙われていたが、チュラーロンコーンはイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事でこれを防いだ。イギリスとフランスにしてみれば緩衝地帯としてタイを残しておきたかったと言うことと、チュラーロンコーンによってある程度近代化されていたのであからさまに占領できなかったからだという。
[編集] 多妻多子
チュラーロンコーンは正妻・副妻に異母の姉と妹を持ち、側室を入れた妻の数は160人以上、子供の数は77人と歴代最高だったため、ワット・プラケーオに併設された宮殿だけでは事足りず、ドゥシットに宮殿を造った。これはドゥシット宮殿と呼ばれているが、今は、ドゥシット公園動物園、ドゥシット公園師範学校、ウィマーンメーク宮殿、タイ王国国会議事堂、アナンタサマーコム宮殿、チットラーダー宮殿などに、その一部を見ることができる。
[編集] 関連項目
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TIME誌選出・今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人 |
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