三宅一生
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三宅 一生(みやけ いっせい、イッセイ・ミヤケ 1938年4月22日 - )は、ファッションデザイナー。広島駅近く、広島市東蟹屋町(現東区東蟹屋町)生まれ。広島大学附属東雲中学校、広島県立広島国泰寺高等学校、多摩美術大学図案科卒業。
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[編集] 来歴
1945年8月6日、爆心地から4キロの東雲小学校の教室で原爆の閃光を見る。「今でも目を瞑れば浮かんでくる、嫌な色だ」 爆心地から2.5キロの自宅で大やけどを負った母は4年後に亡くなる。幼少期から優れた美的センスを発揮、一貫して美術部に所属。焼け野原から復興する広島の街、特に高校の近くにあった丹下健三設計の平和記念公園やイサム・ノグチが設計した平和大橋のデザインに感銘を受ける。
上京し多摩美大に入学。在学中からすでに彼の行動力は際立っていたといわれ、装苑賞の第10回(1961年)、第11回(1962年)の2年連続で現在の佳作にあたる賞を受賞し、頭角を現し始める。コレクションの第1回目は1963年に発表した「布と石の詩」。ファッションを独立したデザイン社会と認知しない当時の日本のファッション環境に苛立ち、卒業後に第2回目のコレクションを発表した後、フランスのパリに渡り、1966年にギ・ラロッシュのアシスタントとなる。バレンシアガの元で働くことを望んでいたものの、1968年にバレンシアガが引退したため、その一部を引き継いだジバンシーでアシスタント・デザイナーに就任。パリモードがオートクチュールからプレタポルテに移行する時代、実用的な衣服をデザインすることで人の在り方を表現するプレタポルテの若手デザイナー達に大きなショックを受けた。
1970年日本に帰国後、「三宅デザイン事務所」設立。翌年2月にはニューヨーク市内のデパートに「イッセイ・ミヤケ」のコーナーを開設した。
1973年には、パリで「イッセイ・ミヤケ秋冬コレクション」を発表。日本の着物から発想した「一枚の布」で身体を包み、いかに立体的な西洋服のフォルムに組み立てるか、“西洋”でも“東洋”でもない衣服の本質と機能を問う“世界服”を創造。布と身体のコラボレーションというべきスタイルの確立は、1978年発表の「Issey Miyake East Meets West」で集大成された。コンパクトに収納できて着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットする1980年代後半に発表された代表作「プリーツ・プリーズ」はこれらの延長線上にあり、これにより三宅は世界の現代アーティストの一人となった。
1990年代以降も世界各都市で開かれる展覧会で常に時代のアートと評価され、その独創的なデザインが世界で認められている。
1993年、フランスレジオン・ドヌール勲章、イギリス英国王立芸術大学名誉博士号授与。1997年紫綬褒章受章。1999年には米週刊誌タイム・アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれる(他の日本人の受賞者は昭和天皇・盛田昭夫・黒澤明・豊田英二・井上大佑)。2005年 第17回 高松宮殿下記念世界文化賞、彫刻部門で受賞。[1]
三宅氏が多摩美術大学在学中より親交のあった白洲次郎・白洲正子夫妻も彼の服を好んで着用した。他に美輪明宏、マイルス・デイビス、ビートたけし、辻元清美などが愛用者として有名。たけしは出た頃、毒ガス漫才で嫌われていたため、「三宅の事務所から着ないで欲しいと言われた」、とよく言っていたが真偽は不明である。
[編集] イッセイ・ミヤケ
彼の作り出したブランド名。イッセイ・ミヤケグループ傘下にはZUCCa・TSUMORI CHISATOなどを展開している株式会社エイネットがある。メンズ・レディス共に手がけており、1992年には香水「オードイッセイ(L'EAU D'ISSEY)」も発売。
1993年 代表作「プリーツ・プリーズ」発表
「ISSEY MIYAKE MEN」は1994年春夏シーズンより、「ISSEY MIYAKE」(レディス)は2000年春夏シーズンより滝沢直己がデザイナーを担当している。
1998年 「A-POC」発表
2007年 秋冬シーズンよりメンズ・レディースともに藤原大がデザイナーを担当する予定である。
[編集] 関連項目
- 広島県出身の有名人一覧
- 全日本空輸(1979~1982年の客室乗務員の制服をデザイン)
- 福岡ソフトバンクホークス(ダイエー時代初期のユニフォームを制作)
- 21_21 DESIGN SIGHT(東京ミッドタウン内/企画・運営)
[編集] 外部リンク
TIME誌選出・今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人 |
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