リチャード2世 (イングランド王)
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リチャード2世(Richard II, 1367年1月6日 - 1400年2月14日)はイングランド王(在位、1377年6月22日 - 1399年9月29日)。
リチャード2世は、エドワード3世の子エドワード黒太子とその妃ジョーン・オブ・ケントの間に次男としてボルドーにおいて誕生した。兄エドワードが1372年に7歳で、続いて1376年に父エドワード黒太子が死去したためコーンウォール公に叙され、エドワード3世の王太子に指名された。1377年6月21日にエドワード3世が死去すると10歳で王位を継承し、父の末弟ケンブリッジ伯エドマンド・オブ・ラングリーが摂政に立った。
1380年に新政権は百年戦争による膨大な戦費調達のため人頭税の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。1381年6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、エセックスの煉瓦工ワット・タイラーに率いられて反乱を起すと、リチャード2世はワット・タイラーとの面会に応じた。リチャード2世はワット・タイラーの要求事項に回答を約束したが、翌日ロンドン市長が面会に現れたワット・タイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された(ワット・タイラーの乱)。
幼いリチャード2世の宮廷では、エドワード3世時代から政権を切り盛りしてきた叔父ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの発言権が強く、彼自身も密かにイングランド王位への野望を抱いていた。1383年に親政を開始したリチャード2世は側近のマイケル・ド・ラ・ポールやロバート・ド・ヴィアらを重用した。さらにジョン・オブ・ゴーントに対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、父の次弟の孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名する。
1386年に宮廷闘争が発生してノッティンガム伯トマス・モヴレーや叔父グロスター公トマス・オブ・ウッドストックらが側近の追放を要求するとこれに応じたが、その後事態が沈静化するのを見て1397年にグロスター公トマスらを逮捕し、その一貫性のない裁定が信望を失わせた。
ジョン・オブ・ゴーントが1399年に死去したのを機会に、その子ヘンリー・ボリンブロクに対して、広大なランスカスター公領の没収とその追放を命じた。その年の7月ボリンブロクが兵を挙げると、リチャード2世に失望していた諸侯や有力者の多くがこれに合流した。翌8月にアイルランド遠征から帰途にあったリチャード2世は、ウェールズとの国境付近で優勢なボリンブロク軍に呆気なく降伏して捕らわれ、 ロンドン塔に幽閉されて、9月28日に開かれた議会で正式に廃位された。
ボリンブロクはヘンリー4世としてイングランド王に即位し、その後、退位したリチャードは身柄を各地に移され、1400年2月14日にヨーク南西のポンティフラクト城で死去した。リチャードは前王の尊厳を奪われ、過酷な処遇を受けて餓死させられたと伝えられている。
1382年に神聖ローマ皇帝カール4世の娘アン・オブ・ボヘミアと最初の結婚をした。エドワード1世同様に仲睦ましい夫妻だったが、アンはペストのため1394年に亡くなった。
1397年、フランス王シャルル6世の娘イザベラ・オブ・ヴァロワ(ヘンリー5世と結婚してヘンリー6世を生んだキャサリンの姉)と再婚。この時イザベルは僅か7歳であり、成人に達する前に未亡人となった。
[編集] 文芸作品に登場するリチャード2世
- シェイクスピアの戯曲『リチャード二世』(『シェークスピア全集11 リチャード二世』、白水社Uブックス、1983年)
- 蒲生総の漫画『リチャード二世 Splendour of king』(1998年角川書店から第1巻出版。ただし現在は絶版のため入手不可能)
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