ヴァレリー・ジスカール・デスタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
代: | 第5共和制3代大統領 |
---|---|
任期: | 1974年5月19日-1981年5月10日 |
前大統領: | ジョルジュ・ポンピドゥー |
次大統領: | フランソワ・ミッテラン |
生年: | 1926年2月2日, |
生地: | ドイツ・コブレンツ |
没年: | -, |
没地: | - |
本職: | 官僚 |
政党: | フランス民主連合( - 2002年) |
国民運動連合(2002年 - ) |
ヴァレリー・マリー・ルネ・ジスカール・デスタン(Valéry Marie René Giscard d'Estaing, 1926年2月2日 - )は、フランスの政治家。
フランス第五共和政第3代共和国大統領(在任1974年 - 1981年)。2003年よりアカデミー・フランセーズ会員。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 生い立ち
ドイツのコブレンツで、フランス人官吏エドモン・ジスカール・デスタンの子として生まれる。エドモンは、元々「ジスカール」が姓であり、妻が中世以来の名門貴族であるデスタン家(fr)出身であった事以外はごく普通の役人であった。ところが、1922年に妻の実家であるデスタン家の男系が断絶してしまう。この頃のフランスでは、フランス革命当時と違い共和制を支持する貴族の家系に対してはむしろ保護が与えられるべきとの考えが強まっていた。このため、議会はデスタン家嫡流に近い女性を妻としていたエドモンに対してデスタン家の継承を要請、これによって旧来の「ジスカール」に妻の実家である「デスタン」を重ねて、以後『ジスカール・デスタン』と名乗るようになったのである。ヴァレリーの誕生はその4年後の事である。
後にパリの理工科学校(エコール・ポリテクニーク)と国立行政学院(エコール・ナシオナル・ダドミニストラシオン)に学んだ。
[編集] 政界進出
第二次世界大戦後の1951年の選挙で国会議員に当選し、1962年から1966年までと1969年から1974年までジョルジュ・ポンピドゥーの下で経済財務大臣を務めた。ポンピドゥーが急死すると、与党傍流の独立共和派公認で出馬。与党主流派のジャック・シャバン=デルマスや左翼統一候補だったフランソワ・ミッテランを破った。
[編集] 大統領
1974年から7年間にわたって大統領をつとめた。業績としては、その在任中にサミット(先進国首脳会議)を各国首脳に提案し、1975年にランブイエで第1回サミットを開催させたことが挙げられる。このサミットにおいて、石油危機への対応などが話し合われた。内政においては、大統領与党として1978年に中道右派政党フランス民主連合を結成したが、次の大統領選挙で社会党のフランソワ・ミッテランに敗れ、大統領の座から去った。
[編集] 欧州協議会議長
2002年2月に設置された欧州評議会の議長に推され、2004年の欧州連合(EU)拡大を前に、EUの将来像に関する諸国間の協議をまとめる重責を果たしたが、一方で欧州大統領制・欧州合衆国を提唱し、東欧への性急なEU拡大やトルコのEU加盟の可能性を批判したことで物議をかもしたといわれている。
[編集] 備忘録
中央アフリカ帝国のボカサ1世は旧宗主国フランスから支持と援助を取り付けるため、当時のフランス大統領だったジスカール・デスタンに膨大な贈賄工作をしたことを後に告白している。その工作が功を奏したためか、フランスからは皇帝として承認され、経済的支援も受けることに成功した。
[編集] 関連項目
|
|
前任: レオポルド・セダール・サンゴール |
アカデミー・フランセーズ 席次16 第19代:2003年- |
後任: - |
カテゴリ: アカデミー・フランセーズ | フランスの政治家 | 1926年生