三宅康直
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三宅 康直(みやけ やすなお、文化8年7月24日(1811年9月11日) - 明治26年(1893年)8月9日)は、江戸時代後期の大名。三河国田原藩の第11代藩主。父は播磨国姫路藩の藩主・酒井忠実の六男。母は忠実の側室・於満寿。正室は西尾忠善の娘、継室は本庄宗秀の養女(本庄道貫の娘)。子に酒井忠顕、竹腰正旧、娘(酒井忠彰室)、娘(三宅康保室)ら。官位は従四位、土佐守。
[編集] 生涯
文化8年(1811年)7月24日生まれ。幼名は稲若。文政10年(1827年)、先代の藩主・三宅康明が嗣子無くして病死した。このため、三宅氏の家臣だった渡辺崋山は弟の三宅友信を嗣子として後を継がせようとしたが、家臣団の多くは酒井忠実の子・康直を養嗣子として迎えようとした。これは、長年困窮にあえぐ田原藩財政を救うために、養子の際の持参金を家臣団の多くが欲しがったためと言われている。このため、崋山が推薦する友信を押さえる形で、翌文政11年(1828年)に康直が次の藩主として迎えられた。
この頃、田原藩の極度に悪化した財政を再建するのための藩政改革の必要が迫られていた。そこで康直は天保3年(1832年)、崋山を年寄役に任じて改革を行なうことにしたのである。崋山はまず、田原藩の災難の解決を図った。この頃、田原藩では領民が難破した他国船の積荷を奪った事件や他国の商人が巧みに法を介入して藩領で新田開発を企てるなど、様々な問題があった。ところが崋山は巧みな交渉能力をもってこれらを全て無難なく解決してしまったのである。また、康直と崋山は協力して2人扶持の支給や格高分合制という人材登用制度などを新たに取り入れた。特にこの人材登用制は、有能な人材であれば家格に関わらず重く登用するという先進的なものであった。また、崋山は農政学者・大蔵永常を招聘して甘藷(サツマイモ)、櫨、椿などの商品性の高い農産物の育成を奨励した。
ところが、康直と崋山の改革は思わぬところから挫折する。ひとつは、天保の大飢饉に領内が襲われたことである。幸いにして崋山の手腕により田原藩では一人の餓死者を出すことも無く収まったが、藩における被害は大きかった。さらに崋山が幕府のお尋ね者である高野長英や小関三英と交友を持ち、洋学に傾き始めたのも一因である。この頃、日本近海に次々と出没していたが、幕府はその対策として異国船打払令を出していた。崋山はこれを無謀と批判して『慎機論』を著わしたが、崋山はこれにより入牢のうえ、国許での蟄居を命じられた。しかし幕府は崋山を警戒して罪を康直にまで及ぼそうとしたため、崋山は康直に罪が降りかかることを恐れて天保12年(1841年)に自殺した。これにより改革は停滞したが、その後の康直は高島秋帆から砲術を学んだ藩士村上範致を重用して、西洋式軍制、大砲術の導入や火薬の製造、海防の強化などに尽力している。嘉永3年(1850年)11月、隠居して家督を娘婿の三宅康保に譲り、明治26年(1893年)8月9日に83歳で死去した。墓所:愛知県田原市北番場の霊巌寺。
[編集] 後継者問題
崋山には三宅氏入嗣のときに反対されたが、崋山とは友人関係のように仲が良かったという。崋山は三宅氏の血筋が絶えることを惜しみ、養子縁組に際してこれを取り仕切った姫路藩の家老に対して、康直の後継ぎには彼の息子ではなく三宅康保(三宅友信の子)を継がせることを条件とし、承知させている。ところが崋山が死去し、康保に強力な後ろ盾がなくなると、康直は崋山の政敵であった国家老鈴木弥太夫らととも実子を後継者にしようと画策した。危機感を覚えた重臣の真木定前は参勤交代の途中の遠江・金谷宿(現在の静岡県島田市金谷町)でこれを諌めるべく切腹した。深く思うところがあったのか、康直は再び康保を後継者とすることとし、鈴木弥太夫に蟄居処分を下した。
[編集] 外部リンク
- 三宅康直の老年期の肖像画(上から四番目の画像)(高橋由一筆、楢崎宗重コレクション 墨田区ホームページより)
|
|
|