中山正暉
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中山 正暉(なかやま まさあき、1932年6月14日 - )は日本の政治家、自由民主党所属の元衆議院議員。大阪府出身。
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[編集] プロフィール
父は元参議院議員で弁護士の中山福蔵、母は元衆議院議員で初の女性閣僚(厚生大臣)となった中山マサで、兄も衆議院議員の中山太郎。1955年に中央大学法学部を卒業し、母マサが厚生大臣時代に秘書官を務めたのをきっかけに、政界入り。大阪市議会議員を経て、1969年に母の地盤を受け継いで衆議院議員に初当選。以来、連続11期当選を果たし、国会議員生活は30年以上に及んだ。
竹下登内閣で郵政大臣として初入閣し、自社連立の村山富市改造内閣では問題発言で引責辞任した江藤隆美の後任として総務庁長官、小渕恵三内閣では建設大臣・国土庁長官として入閣、第1次森喜朗内閣でも留任した。
中川一郎、渡辺美智雄らとともに「青嵐会」に参加するなど、タカ派の論客として鳴らした。拉致議連会長を長年務めたが、日朝友好議員連盟にも参加するなど問題解決に消極的な姿勢と受け取られ批判された。
2003年、母から譲り受けた地盤を長男・泰秀に譲り、政界から引退。
兄・太郎は「お茶の水博士」とあだ名されるような見事なハゲっぷりに対して、正暉はシルバーグレイの渋いキャラクターになっている対比が面白い。正暉本人は宴席で、「長男太郎は狭い産道を出てきたから毛がなく、自分は四番目だからフサフサ」と表現していた。
[編集] 騒動
- 2002年、かつて青嵐会、中川派で同志だった石原慎太郎東京都知事に、北朝鮮拉致問題に関する自らの発言を曲解し、新聞紙上で名誉を傷つけられたとして訴訟を起こした(その後棄却)。訴訟を起こす前、とある会合に出席していた石原を待ち伏せし、マスコミの面前で口論となった。以降、石原とは完全に袂を分かち、長年の親友・浜田幸一と共に石原批判の急先鋒となる。
- 中川派離脱後の所属派閥は中曽根派-渡辺派から村上・亀井派-江藤・亀井派だったが、2003年に中曽根康弘以下幹部の居並ぶ派閥会合の席で亀井らを痛烈に批判し派閥を脱会した。ちなみに後継者の泰秀は森派入りしている。
- 2004年10月、政界を引退し自宅にいたところ、子息の泰秀衆議院議員の名を騙って賠償金を請求する電話を受けた。典型的な「オレオレ詐欺」のパターンで、本人に連絡して詐欺であることを確認し、被害を未然に防いだ。
[編集] 拉致問題への暴言・妨害
- 97年以降、何の根拠があってか知らないが、各方面に拉致事件否定説を発表して、救う会はもとより当時の中大生(蓮池薫さん)を救う会などから非難を受けた。
- 2002年3月、北朝鮮による拉致被害者、有本恵子さんの母・嘉代子さんに電話をかけ、救う会の運動から手を引けば平壌に連れて行って恵子さんと会わせてやる、と語った。5月7日昼、中山は赤坂プリンスホテル中華料理店で救う会役員に、有本恵子さんは生きていると語る。9月21日12時頃、救う会の西岡力が秘書通じて中山に根拠を確認したが無回答。明らかに有本さん拉致事件の解決を妨害した中山の行為に回答を求める声が2006年現在も多くあがっている。
[編集] 家族
父は元参議院議員の中山福蔵、母は厚生大臣を務めた中山マサ。兄は元外務大臣で衆議院議員の中山太郎、長男は衆議院議員の中山泰秀。
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