浜田幸一
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浜田 幸一(はまだ こういち、1928年9月5日 - )は、日本の政治家、タレント、政治評論家。悪党党幹事長。千葉県富津市出身。千葉でヤクザをやっていたことを議員時代から公言していた。
ニックネームは「ハマコー」。また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもつ。羽田孜、渡部恒三、竹下登ら政治家仲間は「ハマちゃん」と呼んでいた。
旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)卒業、日本大学農獣医学部(現:生物資源科学部)中退。
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[編集] 経歴・人物像
[編集] 幼少期
昭和16年(1941年)に月謝免除の特待生として木更津中学に入学。部活には柔道を選んだ。ちょうど太平洋戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として木更津航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた。[1]
中学3年のときに茨城県土浦の海軍航空隊に赴き海軍予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、『もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう』と回想している。[2]
小、中学生時代は新聞配達などをしてまじめな子供だった。
昭和20年(1945年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で南満州鉄道に入ることが決定したものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の木更津航空廠で玉音放送を聞くこととなった。ちょうどこの頃に兄が戦病死。[3]
それから日本大学農獣医学部拓殖科に入学する翌昭和21年(1946年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った。[4]
傷害事件を起こすなどし、以後、さまざまな非行を重ねて「木更津のダニ」との悪名をとった。この渾名は当時(1951年)の地元の新聞記事でも用いられている。これは神社で懲役1年の刺傷事件を起こしたときのもので、『日雇い人夫浜田幸一』との見出して報じられた。出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川会に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、稲川に別の道を考えたほうがよいと言われ、政治に関心があると答えたため稲川は浜田を児玉誉士夫に紹介してくれた。児玉邸に2、3年住み込み下働きを務めた。
[編集] 青年期以降
- 1956年に鶴政会が結成されたとき、加盟した地元の木更津の一家に所属していたとされる。
本人がテレビで述べた所によると、浜田の刺青は「桜彫り(白粉彫り)」と呼ばれる特殊なもので、風呂などで40度以上に皮膚を温めないと浮き上がってこない種類の刺青だという。しかしこれは空想上の産物で、現実にはあり得ないため、日本では浜田幸一以外にはいないと考えられる。 - 拘置所から釈放されたとき迎えに来た母親が号泣したことで改心して青年団に入ったと自称。当時、同じく各地の青年団運動を行っていた竹下登や野中広務と活動を通じて知り合う。
- 青年団運動で、ブルドーザーを借りるために地元(木更津)の自衛隊基地を訪ね、最初は当然のごとく断られたものの強引に説得して借りることに成功し、家の隣の土地を造成し地域のために幼稚園を作ったと自称。[5]その時保母として勤務していた女性に、家の壁からいつもちょっかいをだし、やがて彼女と結婚した。
- 子供の小学校の消毒散布の悪影響で、目に若干の障害を持った。ただし、この散布をしていなかったら多くの児童が感染症で死亡する恐れがあった。
- 児玉誉士夫とかつていた組に援助され、富津町議会議員、千葉県議会議員を経て、衆議院議員選挙に挑戦するも落選。県議会議員時代に小佐野賢治と出会い、以後は不動産取引で大もうけした。昭和44年の衆議院議員選挙の再挑戦で自由民主党から初当選。出馬当初はほとんど泡沫候補扱いされていたが、大規模災害時に、大雨などにも関わらず浜田一人で各家庭にローソクを配るなど、日頃の行動が実を結んだ当選であると自称している。国会議員になってからは児玉と小佐野に加え笹川良一や町井久之が後援者に加わり、依然としてかつていた組の支援も受けていた。千葉でヤクザをしていたことを隠すことなく1978年のインタビューでは「私の最も尊敬する人物は稲川会会長である」と答えた。
- 当時角栄が属していた佐藤栄作の佐藤派入りを希望するも、同期当選の佐藤派議員数名(梶山静六・小沢一郎ら)から「ヤクザのハマコーが佐藤派に入るのなら、派閥から出て行く」という声が上がり、断念。角栄の命を受けて、川島正次郎の許に身を寄せる。これは総裁選に備えての票集めを兼ねた、角栄の策略による偵察行為だったとも言われている。
- 自らの過去の行動を顧みて、息子だけは立派に育てて社会に恩返しをするとの信念から、息子・浜田靖一を幼少の頃から渡辺美智雄の家に預ける。
- 川島と田中の他、中川一郎、金丸信に師事した。
- 議員在職中、公害訴訟の問題に取り組み、慣れない化学式を覚えるために必死で勉強した。
- 全国の全ての選挙区の票読みの正確性に定評がある(いわゆるハマコーの票読み)。これは、国民運動本部長時代に培われたもので、勘やあてずっぽうではなく、特定候補の移籍票(区外からの有権者の大量流入)や、投票率予測・事前調査等のデータを根拠に発言している。
- 1973年には中川、渡辺美智雄、石原慎太郎らと共に民族主義右派の青嵐会(青嵐会の魂は、国軍の創設)を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。武闘派議員として有名になる。
- 元々青嵐会は田中角栄内閣の日中国交正常化に伴う台湾切捨てに反発した若手議員による政策集団という色彩が濃厚であったが、浜田はその中でも特に強硬な反中、親台派議員であった。後の福田赳夫内閣における日中平和友好条約承認審議を巡って、青嵐会の取った抵抗は本会議の欠席という中途半端なものであった。しかし浜田と中山正暉だけはわざわざ出席し、堂々と反対票を投じている。
- 自民党史上最大の危機と言われる40日抗争時、党内の反主流派が築いたバリケードを一人で破壊する姿はテレビでよく流される。このときに、「いいか、よく聞け。かわいい子供達の未来のために自民党があるのだということを忘れるな。お前達のために自民党あるんじゃないんだからな」という演説を張る。浜田はこの一節を考えるのに一晩考え込んだという。実際は、浜田がバリケードを突破するところではなく、主流派が部屋に乗り込んだ際に破られていたバリケードを片付けている最中の姿だったのだが、この頃はその特異な経歴、激しい性格が福家俊一(政治家になる前は東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めていた)と並び称された。1984年11月27日には、中核派によって木更津市の事務所に時限爆弾を仕掛けられるなど、激しい攻撃も受けた。
- 1993年7月に息子・浜田靖一に地盤を譲り政界引退。羽田孜から新党への誘いを受けていたが、これを固辞。引退は地元後援会、秘書を中心とした幸一下ろしであったというのが実情である。本人は後年インタビューで「二世議員なんてもってのほかだと思っていたから、息子が政治家を目指すにしても地盤を継がせる気はなかった。でも自分の意に添わない後継者が選ばれるのは嫌でしょうと説得された」と語っている。
- 議員引退後はタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に出演してゆく。連続ドラマお玉・幸造夫婦ですに出演。その素人演技と内容の突飛さ(元相撲取りという設定)が失笑を買い、今もスカパーで再放送されるほどのカルト的な人気作品となった。この頃には『かわいい』として女子高生からの人気をも集める[6]
- テレビ出演の機会が多くなり、現在もマルチに活躍中。だが、発言など粗暴なのは相変わらずであり、番組収録中に激昂して途中退席することもしばしばある。
- 1993年12月に出版された著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)は発行部数168万部(1995年4月現在)のミリオンセラーとなった。法廷でさらなる情報を開示できるため、本人は名誉毀損での裁判を期待していたが、結局誰からも訴えは無かった。また、ダウンタウンの番組で8人の名前を挙げ、「あと一人いる」ともったいぶって、ダウンタウン浜田に「誰ですか?」と聞かれて「俺だよ」と答え、叩かれた。
また、この時、ダウンタウン浜田が浜田幸一を叩いたシーンがことごとく放送でカットされ、ダウンタウン浜田は自身の著書で不満を述べている。 - 著書で批判した人間達とも必ずしも険悪な仲ではない。小沢一郎からは、浜田の孫の誕生日に、鎧兜が送られた。
- テレビ等のメディアでも千葉でヤクザをしていたと公表している(右翼団体大行社を抱える稲川会とつながりが有ったと指摘されている。後述)24歳のころケンカに巻き込まれ、相手を刺してしまった(故意ではない)。
これは傷害事件となり実刑判決となった。この時、浜田の母が、木更津で一番有名な弁護士を用立て、息子を助けた。 - 地元の新聞に木更津のダニと書かれた事がある(町のダニとも)。
自身の著書でも触れているが、戦後、法律の枠外に置かれた在日朝鮮・韓国人の不良行為(いわゆる在日・特亜特権)に対して我慢がならず、現場を見つけては暴れていたと自称している。この逸話と日本の戦争責任問題を同時に語るため、浜田の歴史認識はバランスが取れているといわれる。 - 「悪い奴らがいる」とのヤクザの親分衆の話を聞きつけ、「それならあっしが始末します」と名乗り出ると、始末の対象は浜田自身だった。その場は笑い話で終わり、浜田が指をつめることで解決する。
この時、指が完全に離れず、テープでほっておいたら勝手にくっついたと本人は述べている。そのため、指の一部は現在でも正常に機能しない。 - 共産党の議員に、「あいつはヤクザじゃないか」と罵られた時、「自分は確かに、かつて一時期そういう時代もあった。それを否定しない。その過去を責められたら素直に認める。しかし、それをもって私の存在自体を否定したり、また再びチャレンジできないような社会をつくってはいけない」と述べている。
- 自ら尊敬する人物と公言してはばからないのが熱海の稲川聖城氏である。『新潮45』の企画にてビートたけしと対談した稲川は、浜田の話題となると「ハマコーの野郎、前はよく来たのに、最近は(熱海へ)来やがらねぇ」といった後で、「あれでいいところもあるから監督(たけしのこと。芸人ビートたけしとしては五寸の挨拶は許されないため、映画監督として処遇)も面倒みてください」と浜田を気遣っている。
- 元運転手にバーニングプロダクション社長の周防郁雄、元秘書にプロレスラーのユセフ・トルコがいた。トルコは石井進会長が総会屋の勉強をさせる為に小川薫の下で勉強させていたが上手くないため、浜田が引き取ったとされる。
- 父が、警察署で拘置者に対して柔道・剣道の指導をしていたため、幼少の浜田も警察で父の指導を受けていた。
戦後、浜田が警察に逮捕されて留置を受けていると、荒くれものの父も別の事件で逮捕されて同房で留置を受け、浜田が起訴されて拘置所に移ると、間もなく父も起訴されて同じ拘置所に移ってきたという笑い話のようなエピソードがある。かつて父が潰した父方の家の名跡をいつか復活させたいというのが、浜田の願いであるという。 - 国会内で英字新聞を読んでいた人物に対し、「日本の国会議員なら日本語の新聞を読みなさい」と言ったところ、その人物が宮沢喜一だった。三木武夫に向かって「話し方やら性格やら、私は三木さん、あなたが大嫌いだ」と言ったという話も残っており、その破天荒さからか、農林水産政務次官、防衛政務次官、衆議院建設委員長、予算委員長などを歴任するも、当選7回にもかかわらず一度も閣僚にはなれなかった。ただ一人安倍晋太郎から、「自分が首相になった時にしか閣僚になれない」と言われたこともあったが、結局安倍は総裁目前にして亡くなってしまった。
- 2005年の郵政民営化騒動の際にも登場し、「自由民主党の総裁が、日本の総理大臣が、やろうとすることに反対するなら自民党から出て行け」と反対派議員を叱責した。しかし浜田には総理大臣に反対し、さらには先述のように党議拘束に反してまで日中平和友好条約に反対票を投じた過去もある。
- 東京湾アクアライン建設の立役者。神奈川県川崎市と千葉県木更津市をつなぐ高速道路の建設を推進した。建設費は、1kmあたり1000億円で、1兆5000億円かかったという(15km)。川崎市から海ほたるまでは、海中道路で、海ほたるから木更津市は、海上道路となる。通行料が高いことや、通行する自動車数が予測よりも少なく、赤字となっており、国会などでも問題となった。SMAPの香取にこの点を指摘されると「私の責任です」と言い、続けて「あと100年後したら、必ずこの事業の意義が分かる時がくる」と述べた。詳細は不明だが、防災インフラを示唆していると思われる。
- 日本で最も有名な政治家の一人であり、乱暴な物言いや、派手なパフォーマンス、そして明快な解説で人気が高かった。自身が長く政治家を続けられたひとつの理由として、その選挙戦の戦い方がある。わざわざ白いスーツを着て田んぼで畑仕事をしている有権者に握手を求めたり(当然ながら白いスーツは泥で汚れてしまうが、それが狙い)、自作の「お母さんの歌」を大声で泣きながら熱唱するのが常であった。その他同僚議員の応援にいくと必ずといっていいほど(1)自作(実は川内康範の作品)「お母さんの歌」を歌い、(2)自民党の幹部をこき下ろし(勿論、野党に対してはその倍は酷評している)、最後に壇上から「よろしくお願いします」と(3)土下座するパターンであり、応援された議員も苦笑しながら(4)土下座するのも見慣れた風景であった(但し、この歌も幾分かの洒落が入っていたのかビートたけしのTVタックルで「お母さんの歌」を持ち出されると苦笑している)。それらのパフォーマンスは師である田中角栄の系列の議員などが得意としていた。
- あまりに忙しく、選挙時に浜田の唾を手で受け止める係の女スタッフが存在した。本人は選挙時にはほとんど睡眠しない事を公言しており、そこまで集中して、かつ周りがフォローしていた逸話として知られている。
きれい汚いの話で見るとおかしく感じるが、決してわがままさや横暴さから行われた行為ではない。 - 郵政民営化法案の採決を棄権した参議院議員大仁田厚が、出演した『ワイドスクランブル』にて「僕らは小泉さんの子供です。親を裏切れなかったんですよ」と大声を発したため、浜田が「お前、何俺にどなってんだよ」と大仁田を一喝した。大仁田は一言「すいません」と謝った。
- 2004年3月27日に放送された『たかじんのそこまで言って委員会 春の芸能界スペシャル』の中で、俳優の今井雅之が元イエローキャブ社長でサンズエンタテインメントの野田義治社長に向かって「お前らみたいなのがいるから芸能界おかしくなんのじゃ、アホ」と激怒した発言に対し、それを見た浜田が「なに威張ってんだこの餓鬼が」「そんなことをお前より年上の人に言うんじゃない、馬鹿野郎」などと口論になり、浜田が途中退場する騒動となった。退場した浜田を説得し呼び戻すために、野田社長、同時にゲスト出演していたガッツ石松が一時退場、今井雅之自身が浜田に謝罪した。同番組に出なくなったのは、東京を敵視しているやしきたかじんをはじめとする全国ネット化で降板を宣言する出演者が気に入らなかった可能性が高い。
- 自民党の幹事長会に出た内閣総理大臣森喜朗に「森てめぇこのやろうぶっ飛ばすぞ」と言い、それを止めに入った幹事長古賀誠に「調子にのってんじゃねえぞ」と言った。森喜朗は苦笑いをしていた。
- テレビ等で、同じゲスト出演者などに「あんたは出世するよ」と言葉をかけることがあるが、大抵の場合は「上の言うことをよく聞くから」出世するという意味合いで使っており、ある意味では最大の侮辱の言葉でもある。
- 靖国神社問題に絡む富田メモの報道は、天皇制を廃止して大統領制成立を目指す勢力の陰謀であると、「ビートたけしのTVタックル」において真顔で主張。この際、出席者の誰からも反論は起きていないと同時に、皆、苦笑いだった。
- TVタックルの番組中の発言で、「22年間議員をやって、天皇陛下から勲章を貰っていないのは自分だけ。それは自分の言う事が常に本当のことしか言わないから」と発言している。
- 同番組でいじめ自殺問題が取り沙汰された際は、日教組及び日教組からの支持を得ていた旧日本社会党の、教育界における影響力の弊害を指摘する。いじめ自殺多発の原因は国内の革新勢力に有りと言う発言。
- 2003年の党役員人事で、自民党幹事長に安倍晋三が抜てきされたが、これを事前に同番組内で予想して見せていた。当時は多くの識者や政治家が山崎拓幹事長の留任を有力視していた。
- 陰謀論を主張することが多い。ただ話を聞くだけでは論理が飛躍しているが、本人しか知りえない秘密や内部事情を埋めると筋道が通っている、と支持者一同は思い込んでいる。実際、浜田の発言通りのことが起こることもある(宮沢総理誕生時)。
- 自由民主党国会対策委員会委員から要請され、師である中川一郎の長男中川昭一(当時経済産業大臣)に対し、酒癖の悪さを厳しく叱咤した。
[編集] 武勇伝
[編集] ハマコーの武功
1979年、いわゆる40日抗争で、反主流派の構築したバリケードを強行突破。両院議員総会の開催を導いた。
[編集] ラスベガス事件
1980年3月6日に発覚。ラスベガスのカジノで4億6000万程度を一晩ですってしまったとされる事件。
当然そんな大金を浜田が用意できるわけはなく、当時浜田が不動産関係で世話になっていた小佐野賢治が代わりに用立てて支払った。ところが、その金が実はロッキードから小佐野に流れた金であるとの議会証言がアメリカで行われ、大騒ぎになった。浜田も言うとおり、ロッキード事件とは直接関係はなく、浜田のあずかり知らぬことである。しかし、浜田を国会の委員会に推薦した金丸夫人が、浜田を泣いて叱りつけ、議員を辞職した。そして、この年に行われた総選挙へ自民党の公認が得られなかった。出馬を見送り、収入の無くなった浜田は小佐野の不動産会社で真面目に働き、土地の売買等を通じて数年かけて借金を全額小佐野に返済した。なぜ、そのように4億6000万という金額になったのか、一体何をしたのかを、テレビ番組で平沢勝栄に問われ、「一度失敗すると500万失くす」ゲームで損失が膨らんだと答えた。また、当時のことを振り返り、ラスベガス大学に留学していたと自嘲し、笑いをさそうことがある。
また、その頃からの愛人T子は2006年春に首吊り自殺をした。[要出典]
[編集] 法相殴打事件
1984年9月19日、自由民主党本部が中核派に放火され炎上した(自由民主党本部放火襲撃事件)。浜田はいち早く駆けつけ消火にあたった。そこへ当時の法務大臣であった住栄作が酔っ払った状態で現れ、「マッチポンプな真似しやがって」と発言した。それに怒りを感じた浜田は、住を殴りつけてしまった。後に住は発言が不適当だったことを認め、浜田に謝罪した。
[編集] 「宮本顕治人殺し」発言
1988年2月6日、衆院予算委員会で質疑に立った日本共産党の正森成二議員が、「過激派への政府の対応は、泳がせ政策ではないか。」との趣旨の発言をし、竹下登首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁したことに対し、正森議員が「浜田委員長も過去、ワイドショーで共産党と同じ意見を述べていた」と発言した。当時の衆院予算委員長だった浜田は、共産党と自分の意見の違いを見せようと思い咄嗟に「我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました。」と、過激派と宮本率いる共産党をあたかも同一視しようとしたため、正森は激昂したが、このとき浜田は正森の言う「泳がせ政策」発言を肯定したため、正森は対決を避け、他の質問に移った。
興奮した浜田はその後終了間際に正森が円ドル為替問題の質疑中であったがこれを突然遮り「昭和八年十二月二十四日、官本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね」「私が言っているのは、ミヤザワケンジ君が人を殺したと言っただけじゃないですか。」(“宮本顕治”の言い違い)と発言。正森議員が発言の撤回を求めて抗議し、委員会室は一時騒然となった。NHKでこの審議の模様が生中継されており、自分の意見と共産党の意見は違うと印象づけるための、中継放送の終了時間を逆算した確信犯的発言であると浜田本人は述べている。その証拠というか、先述の発言に際し「言っていいんですね!」と浜田は繰り返し“念を押して”いた。
この時、浜田を予算委員長に推薦した金丸夫人は「バカ!あんたなんか死んじゃえばいいんだ」と号泣した。浜田は、自分の首と議事録削除阻止を狙っていたが、結局委員長を辞任した。NHKはこの模様を時間の関係上途中で打ち切って「大草原の小さな家」を再放送したことに対し、同局には苦情の電話が殺到した。
後に、正森議員と国会の廊下ですれ違った際に「俺の首を獲りやがって」と発言したが目は笑っていたという。
1984年9月20日・日本テレビ「ワイドショー」において、浜田は「(自民党本部放火事件の)責任はだれにあるというかというと、泳がしていた我々にあると思いますよ。『中核派』を泳がしていた。やっぱり法律違反で破壊するものを泳がした。そういう一つの政策の誤りがあるんじゃないですか」と「過激派の泳がせ政策」を認めている。
第112回国会 予算委員会 第7号(63. 2. 6)議事録
[編集] 語録
- 「自民党の終わりは日本の終わり」
- 「日米安保なくして日本の繁栄はない」
- 「これから大増税時代が来る」
- 「自民党は可愛い子供たちの時代のためにあるんだ」
[編集] 著書
- 『弾丸なき抗争―権謀術数に生きる男の戦い』(1983年1月) ISBN 4584005028
- 『不肖ハマコーがゆく―一所懸命に闘い、一所懸命に死ぬ』(1989年7月) ISBN 4890367691
- 『実力者に問う!!―これからの日本をどうする』(1990年11月) ISBN 4062051877
- 『日本をダメにした九人の政治家』(1993年3月) ISBN 406206779X
- 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』(1994年2月) ISBN 406256033X
- 『ハマコーの世の中間違っとる』(1994年4月) ISBN 4643940352
- 『ハマコーの証人諫問―国民のために代表質問いたします』(1994年7月) ISBN 4334970907
- 『ハマコーの何度言ったらわかるんだ!』(1995年5月) ISBN 4643950382
- 『たまには誉めてやる これからの18人―ハマコーの政治家“私”観』(1995年6月) ISBN 4331504921
- 『ハマコーの非常事態宣言』(1995年7月) ISBN 4391117622
- 『新版 日本をダメにした九人の政治家』(1995年10月) ISBN 4062561190
- 『みっともない「生き方」はするな!―ハマコー、この“破天荒人生”に知恵あり』(1996年3月) ISBN 4837916317
- 『予言集』(1996年6月) ISBN 4643960590
- 『石原慎太郎くんへキミは「NO」と言えない』(1999年6月) ISBN 482110671X
- 『日本を救う9人の政治家とバカ1人』(2001年7月) ISBN 4575292524
- 『お願いだから、わかって下さい。国会というところ…』(2002年4月) ISBN 4591072118
[編集] 出演番組
- お玉・幸造夫婦です(1994年 よみうりテレビ)
- 森田一義アワー 笑っていいとも!(2002年4月~9月、フジテレビ)
- ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日、準レギュラーで番組内での肩書きは悪党党幹事長)
- たかじんのそこまで言って委員会(よみうりテレビ)
- 爆笑問題&日本国民のセンセイ教えて下さい!(テレビ朝日)
- いきなり結婚生活(テレビ東京)
他にも選挙特別番組など多数の番組に出演
[編集] 文献資料
- ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.86-87 〔ISBN 406256033x〕
- ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.88-89 〔ISBN 406256033x〕
- ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.90,92 〔ISBN 406256033x〕
- ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.95 〔ISBN 406256033x〕
- ^ 『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.122 〔ISBN 406256033x〕
- ^ 『何の因果で』 P.19 - ナンシー関 〔ISBN 4041986052〕
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