丸谷才一
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丸谷 才一(まるや さいいち、男性、1925年8月27日 - )は、山形県鶴岡市出身の小説家、文芸評論家の一人。代表作に『裏声で歌へ君が代』など。
目次 |
[編集] 年譜
- 1925年(大正14年)、山形県鶴岡市生れ。丸谷熊次郎(開業医)、千夫婦の次男。1943年(昭和18年)に旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。当時の優等生は陸軍士官学校か海軍兵学校に進むことを期待されていたにもかかわらず、校長の勧めを無視して東京の予備校に1年間通学し、1944年(昭和19年)に旧制新潟高等学校文科乙類に入学。このため、鶴岡中学校の校長から全校生徒の前で非国民と呼ばれ非難された。
- 1945年(昭和20年)、召集によって山形の歩兵第32連隊に入営し、半年後に復学する。
- 1947年(昭和22年)、旧制新潟高校卒業後、東京大学文学部英文科に入学し、在学中中野好夫教授や平井正穂教授に師事して主に現代イギリス文学を研究、ジェイムズ・ジョイスを知って圧倒的な影響を受ける(卒業論文も「ジェイムズ・ジョイス」)。
- 1950年(昭和25年)、同大学院修士課程に進む。また修士課程時代には桐朋学園で英語教師として勤務した(当時の教え子に小澤征爾や高橋悠治がいる)。
- 1951年(昭和26年)、東京都立北園高等学校講師。
- 1952年(昭和27年)、篠田一士、菅野昭正、川村二郎らとともに季刊同人雑誌『秩序』を創刊し、習作を発表しはじめる。高千穂高等学校講師。
- 1953年(昭和28年)、國學院大學講師に就任し、翌年(1954年・昭和29年)同大学助教授に昇進する。この職場において中野孝次らと知る。また10月、演劇批評家根村絢子と結婚して、根村姓を継いだ。
- 1960年(昭和35年)、処女長編小説(本人によれば習作)の『エホバの顔を避けて』を刊行。
- 1964年(昭和39年)にジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』(上下2巻)の共訳を行い、その技量によって一躍注目される。
- 1965年(昭和40年)、國學院大學より東京大学に転じて英文科講師として2年間「ジェイムス・ジョイス」を講義。
- 1966年(昭和41年)、二つめの長編小説『笹まくら』、『梨のつぶて』刊行。
- 1967年(昭和42年)、『笹まくら』で河出文化賞を受賞し、『鐘』刊行、翌年(1968年・昭和43年)『年の残リ』刊行、芥川賞受賞。
- 1972年(昭和47年)、長編小説第三作『たった一人の反乱』で谷崎潤一郎賞受賞。
- 1974年(昭和49年)、評論『後鳥羽院』(1973年・昭和48年刊行)で読売文学賞受賞(この作より後歴史的仮名遣で作品を発表)。
- 1975年(昭和50年)、いわゆる四畳半襖の下張事件において、被告人野坂昭如の特別弁護人として活躍する。
- 1982年(昭和57年)、長編第四作『裏声で歌へ君が代』刊行。
- 1985年(昭和60年)には『忠臣蔵とは何か』を発表し、忠臣蔵における御霊信仰とカーニバル性について国文学者、諏訪春雄と論争を繰りひろげる。同作はこの年の野間文芸賞を受賞した。
- 1988年(昭和63年)、『樹影譚』で川端康成文学賞受賞。
- 1991年(平成3年)、『横しぐれ』の英訳(デニス・キーン訳、『RAIN IN THE WIND』)がイギリスのインディペンデント外国小説賞特別賞受賞。
- 1993年(平成5年)、長編第五作『女ざかり』が爆発的なベストセラーとなり、翌年吉永小百合主演で映画化された。
- 1998年(平成10年)、芸術院会員就任。
- 1999年(平成11年)、評論『新々百人一首』が完結し、刊行。
- 2000年(平成12年)、大佛次郎賞受賞。
- 2003年(平成15年)、長編第六作『輝く日の宮』で泉鏡花文学賞受賞。
- 2006年(平成18年)、文化功労者に選ばれる。
[編集] 評価
[編集] 小説
小説家としては寡作なほうに属するが、評価は高い。長編小説に主力を注ぎ、本人も、周囲も、長編小説家と見なすことが多い。かつて筒井康隆は「ディケンズ的退廃」と絶賛した。作品の構造は極めて堅牢で、巧者であるといえる。
初期からモダニズム文学の影響を受け、イギリス小説ふうの風俗性と知的な味わいを重視して、従来の私小説的な文学風土に対するつよい批評意識のもとに小説を書いてきた。風景や感情に対する繊細な観察が特徴的である。文壇に登場した時期には所謂内向の世代と呼ばれる文学潮流に区分されたこともあったが、これは丸谷のために必ずしも適切であるとはいえない。
『エホバの顔を避けて』は本人も習作としており、丸谷の作としては特に高く評価すべきではないと思われるが、エホバとの関係を通して、圧倒的な権威によって抑圧されそこから逃れようとする魂の状況を描き、この問題は後々彼の長編小説における大きな主題として引き継がれてゆくことになる。またジョイスの影響によって取入れられた内的独白の手法や、描写の繊細な美しさは、長編第二作『笹まくら』においてより大きなかたちで完成を見ることになる。
『笹まくら』に対する評価はおおむね極めて高く、一部の論者にはこれをもって丸谷の最高傑作とする場合もある。内容は第二次世界大戦中を徴兵忌避者としてすごした男が、戦争が終わって後もその過去が彼にさまざまな影響を与えつづけるという精神の様相を描いたもので、『エホバの顔を避けて』以来の主題性、戦争という奇妙なものの気持わるい実感を描ききった(鹿島茂に「『笹まくら』は戦争後遺症小説である」という言がある)。また彼の小説の柱である風俗性が充分に生かされ、作品全体にそれまでの日本の小説にはめずらしかった知的な印象が与えられている。この作によって作者の文名は一躍高いものになった。
以上を初期作品と位置づけた場合、『たった一人の反乱』以降は中期ということができるであろう。この時期以降は、初期における叙情性に代って、風俗性と小説における批評性(登場人物たちのかわす知的な会話)がより重視されるようになり、場合によってはペダンティックとまで言われるほどの知的風俗を描く小説の流れが完成される。文体はレトリックを華やかに用いる派手なものとなり、作品の評価は賛否相半ばする場合もあるが、中期以降の彼の作品によって、日本の小説のなかに近代的な自立した市民が知的な生活を送ることに根ざした風俗小説の流れが定着したことは大いに評価に値する。
文芸雑誌などに発表する文章では歴史的仮名遣(ただし、漢字音については必ずしも旧かなには従っていない)を用いることで有名であり、その文体を清水義範に『猿蟹合戦とは何か』(『国語入試問題必勝法』に収録、元ネタは『忠臣蔵とは何か』)としてパロディにされたこともある。ちなみに丸谷は『国語入試問題必勝法』文庫版に解説を寄せており、その中で清水の才能を認めておりながら、同時に『猿蟹合戦とは何か』を評価できかねる気持ちを正直に告白し、複雑な心境を垣間見せた。またフリーウェアの旧字旧仮名遣い変換辞書「丸谷君」の名は丸谷才一に由来する。
[編集] 評論
評論家としての丸谷の仕事は、和歌の伝統の日本文学史上の位置づけにある。『日本文学史早わかり』で主張された、アンソロジー中心の文学史論は、大岡信による紀貫之や菅原道真再評価とともに、同時代の文学に大きな刺激を与えた。これは後の『新々百人一首』につながり、また石川淳や安東次男、大岡信とともに歌仙連句を文壇に復興させることにも貢献した。また、石川淳の後を受けて1973年、1974年に朝日新聞に掲載した文芸時評(のちに『雁のたより』として単行本になる)でも、文芸雑誌にこだわらない評価をくだした。
[編集] その他
- 志賀直哉への批判で有名。
- 熱烈な「横浜ベイスターズ」びいき(丸谷は「ファン」という言葉は使わない)としても有名である。
- 対談の名手としても知られる。特に山崎正和とは数多くの連載対談を行い、共著として刊行している。
- 豆腐が好物である。
- 『ユリシーズ』の翻訳について荒正人と、『忠臣蔵とは何か』で諏訪春雄と、それぞれ論戦を交わした。
[編集] 主な作品
- 『たった一人の反乱』
- 『笹まくら』
- 『裏声で歌へ君が代』
- 『忠臣蔵とは何か』
- 『女ざかり』
- 『食通知ったかぶり』
- 『新々百人一首』
- 『挨拶はたいへんだ』
- 『輝く日の宮』
[編集] 主な訳書
- ネス湖のネッシーおおあばれ
- 不良少年 1952
- 孤独な娘 1955
- ブライトンロック
- 負けた者がみな貰う 1956
- ここは戦場だ 1958
- ユリシーズ
- 若い芸術家の肖像
- 何か特別なもの
- 鐘
- 日時計