今村均
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今村 均(いまむら ひとし、1886年(明治19年)6月28日 - 1968年(昭和43年)10月4日)は、日本陸軍の軍人で陸軍大将。宮城県仙台市出身。戦時中の大日本帝国陸軍の将軍達の中で数少ない名将の誉れ高い人物の一人である。その人柄、エピソードは敵国であった連合国側からも称えられている。
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[編集] 略歴
- 1886年6月 宮城県仙台市で生まれる。父今村虎尾(裁判官)、母きよみ
- 1905年7月 甲府中学、新発田中学を経て、士官候補生
- 1907年5月 陸軍士官学校卒業
- 1915年12月 陸軍大学校を首席で卒業
- 1917年5月 大尉に昇進
- 1918年10月 駐在武官補としてイギリスに派遣
- 1927年4月 駐在武官としてインドに派遣
- 1930年8月 大佐に昇進
- 1931年8月 参謀本部作戦課長
- 1932年4月 歩兵第五十七連隊長
- 1935年3月 少将に昇進。歩兵第四十旅団長
- 1936年3月 関東軍参謀副長
- 1938年3月 中将に昇進
- 1941年6月 第二十三軍軍司令官。12月 第十六軍司令官
- 1942年11月 第八方面軍軍司令官
- 1943年5月 大将に昇進
- 1946年4月 ラバウル戦犯者収容所に入所
- 1947年5月 オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁固10年)
- 1949年12月 オランダ、インド軍による軍事裁判判決(無罪)
- 1950年2月 マヌス島で服役することを申出
- 1953年8月 マヌス島刑務所閉鎖に伴い巣鴨拘置所に移る
- 1954年11月 刑期を終え巣鴨拘置所を出所。
- 1968年10月 死去。享年82
[編集] 経歴
[編集] 士官時代
新発田中学を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、裁判官をしていた父の虎尾を失う。そのため経済的に当初志望していた一高、もしくは高商に進学することは厳しくなったが、母きよみの勧めもあり陸軍士官学校への入学を志願、合格した。9歳まで夜尿症を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度もトイレに立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた。そのため授業中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。このようなことがあると流石に危機感を感じたのか、いつからか授業中に唐辛子を噛んで眠気覚ましにした。これに気付いた教官はそれ以降の居眠りを注意しなくなった、という逸話が残っている。
その後士官学校を無難な成績で卒業した今村は、陸軍大学校に進学。そこでも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は大学校の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった、という。
しかし今村は1915年、そのようなハンディを背負いながらも陸軍大学校を首席で卒業した。(同期生には東条英機がおり、11番で卒業)
[編集] 戦時中
太平洋戦争初期は、第16軍司令官としてジャワ島攻略戦を指揮。その際、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、わずか9日間で10万のオランダ、イギリス軍を降伏させる。
攻略戦の際オランダ軍によって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を遺憾なく発揮し、敵が破壊した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、略奪等を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。
戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村は要求を拒んだ。これは白木綿を取り上げたら現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという彼らの宗教心まで傷つけると考えたからである。軍部などから批判を浴びたが、その実情を調べに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。
その後今村は、第8方面軍司令官としてラバウルに向かった。その当時太平洋の島々はほとんど米軍の手にあり、補給が長く続かないことが懸念された。そのため今村はガダルカナルの悲劇を繰り返すまいと、島内に大量の田畑を作り自給自足を可能とした。また米軍の空襲、上陸に備えるため地下要塞を建設した。そのあまりの堅固さに米軍司令部も攻略を諦め、迂回進撃し補給路を断ったのち、日本軍を餓死させる作戦を採用した。だが前述のとおりラバウルは本土からの補給無しでも十分生存、戦闘も可能な食料を備蓄していたので、終戦まで日本軍が保持していた。
若い頃から後の連合艦隊司令長官、山本五十六とは親交があった。いわゆるトランプ仲間だったといい、互いに認め合っていたといわれる。そのため山本が戦死(海軍甲事件)した際には泣いて悲しんだという。今村本人も、ラバウルに着任後、山本が戦死する直前に、海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、米軍戦闘機に襲撃されそうになったが、危うく難を逃れたと言われている。
[編集] 戦後
1945年8月15日、日本が降伏し、太平洋戦争は終結。今村は戦争指導者として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁固10年で判決が確定した。その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
その後今村はオーストラリア軍の禁固10年の判決により、1949年に巣鴨拘置所に送られた。だが今村はいまだに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちのことを考えると、自分だけ東京にいることはできない、として1950年には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。妻を通してマッカーサーに直訴したといわれている。
その態度にGHQ司令官のマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた。」と言ったという。
その後刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた小屋(謹慎室)に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、回想録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に使ったという。
また援助を求めてきた元部下に対して今村は出来る限りの援助をしたという。それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。その行動につけこんで元部下を騙って無心をする人間もいたが、それに対しても今村は騙されているとわかっていても拒否はしなかったという。
1968年10月4日死去。享年82。
[編集] 評価
彼の将軍としての評価は特に軍政面で非常に高いことで後世の評価はほぼ一致している。 特に彼が戦後とった行動はよく現代社会における有事の上司の行動と比較され、「素晴らしい上司とは、かくあるべき」とされることが多い。 また、今村将軍の評価の際は牟田口廉也陸軍中将と比較されることが往々にしてある。
戦略面では、ラバウルでの持久戦が示すとおりに先を読んで準備をするという能力に優れていた人物であったことは確かでそれを成し遂げたという面においては評価されている。
戦術面では、実戦を指揮したのが対中国戦、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、後はラバウルでほぼ戦闘もなく終戦を迎えたこともあり凡将か名将かで評価は分かれる。米軍相手の戦闘を殆どしていないことで他の将軍達と比較しにくいという所が実情のようである。
また、部下に非常に慕われる人柄であった為、統率に関してはしっかり取れていたようである。彼は部下を愛し、住民を愛したと言われそれに対して部下、住民は絶大な親しみを寄せていたといわれる。(余話参照)
[編集] 余話
漫画家の水木しげるは、兵役でラバウルにいたときに視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と書いている。(水木しげる「カランコロン漂泊記」小学館文庫)
ジャワ島攻略の際、阻止攻撃に来襲した米艦隊と輸送船団の護衛部隊との間でバタビア沖海戦が発生したが友軍の魚雷の誤射により座乗していた輸送船「神州丸」を撃沈されてしまい、真夜中の重油が流れる海を3時間泳ぎ続けて救助されるという災難に遭う。翌日司令部揃って謝罪に来た海軍司令官に対し快く謝罪を受け入れた上、味方の大勝に終わった海戦結果と海軍の名誉に傷を付けぬために同士討ちの事実を隠蔽することを提案したといわれる。これは当時の日本陸海軍の反目度からいって普通は考えられないことであり、こういったところにも今村中将の人柄が滲み出ているといえる。
彼が戦後連合軍に囚われたときにスカルノを指導者とするインドネシア独立軍による救出作戦の計画があったり(今村本人が謝絶)、現地住民の多くが裁判で今村を擁護したことでもそれがわかる。今村は部下の裁判に対しても擁護する証言をし、それにより刑が軽減されたり無罪になったりした部下も多かったといわれる。 尚、現在でも今村将軍はインドネシアの教科書に載っておりその評価の高さが窺えよう。
[編集] 今村均に関連する書籍
- 土門周平「陸軍大将・今村均」
- 角田房子「責任 ラバウルの将軍 今村均」ISBN 4480421513(筑摩書房)
- 秋永芳郎「陸軍大将今村均―人間愛をもって統率した将軍の生涯」
- 日下公人「組織に負けぬ人生。 不敗の名将・今村均大将に学ぶ」ISBN 4-569-61740-9(PHP研究所)