今村明恒
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今村 明恒(いまむら あきつね、1870年10月30日(明治3年5月16日) - 1948年(昭和23年)1月1日)は日本の地震学者。
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[編集] 生涯
1870年、鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士今村明清の三男として生まれた。1891年に東京帝国大学理科大学(現東京大学)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入りそのまま講座助教授となる。1896年からは陸軍教授を兼任し測量部で数学を教えた。1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。現在では広く受け入れられている説であるが、発表当時はほとんど受け入れられなかった。
今村は震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から関東では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された[1][2]。しかし1923年に関東大震災が発生し今村の警告が現実のものとなった。
1923年に亡くなった大森房吉の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。1925年に但馬地震、1927年に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考えた今村はこれを監視するために、1928年に南海地動研究所(現東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。今村の予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。
1929年、1892年に解散していた日本地震学会を再設立し、その会長となった。専門誌『地震』の編集にも携わった。1931年に東大を定年退官したが、その後も私財を投じて地震の研究を続けた。1933年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案した。また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。それが実現した後、1940年に「『稲むらの火』の教え方について」を著して、その教え方についても詳しく指導している。
1944年に東南海地震が発生した際には、掛川-御前崎の水準測量を行なっていた。この時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。
浄瑠璃語りを趣味として宴会で披露していたという。また上京時に方言で苦労した自らの体験から、1915年に地方出身者のための東京弁の指導書である『東京辯』を著している[3]。
なお次男の今村久も地震学者である。