小早川秀秋
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小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)、天正10年(1582年)-慶長7年10月18日(1602年12月1日)は安土桃山時代から江戸時代前期の大名。木下家定の子。正室は毛利輝元の養女(実父は宍戸元秀、祖母は毛利元就の長女)。従三位、権中納言。左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、金吾中納言とも称された。
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[編集] 生涯
木下家定(豊臣秀吉の正室高台院の兄)の5男として生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助。初名は木下秀俊。1585年、羽柴秀吉の養子に入り、羽柴秀俊と名乗る。1589年、改易処分にされた豊臣秀勝の領地であった丹波亀山10万石を与えられる。1592年、従三位・権中納言に叙任される、11歳。1594年、秀吉の命にて小早川隆景の養子となり秀秋と改名した。官職は中納言だったが、元服時に受けた官位「左衛門督」の唐名「執金吾」とあわせて「金吾中納言」とよばれた。1595年、豊臣秀次事件に連座して丹波亀山を没収される。同年に養父・隆景が隠居し、その領地であった筑前、筑後・肥前の一部30万7000石を継承し、筑前名島城主となった。
豊臣氏から厄介払いされて無縁の小早川氏の養子になったにもかかわらず、秀吉、隆景の後ろ盾がなくなっても1万近い家臣は、この時14歳の秀秋につき従っている。
慶長の役の蔚山城の戦いでは、明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かった。初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍した。しかし本来、秀秋は釜山城を守っていなければならず、蔚山倭城の救援に向かったことが大将として軽率な行動と批判され、石田三成を介して秀秋の行動が詳細に秀吉へ報告されたため、秀吉は秀秋の筑後の領地を召し上げて越前北庄15万石へ国替えしたと言われている。この時徳川家康から取り成しを受け、徐々に家康側に接近していく。
[編集] 関ヶ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に参加。伏見城攻めにも参加し、抜群の戦功を挙げている。しかし、この時の戦功をまたもや三成が認めなかったため、激怒したとも言われている。なお当初から東軍と内通していたとも言われる。三成から関白の地位を約束され西軍への同心を促すもの、そして黒田長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様の為に動いている」と書かれたものの二通ある。
秀秋の行動を不審に感じていた石田三成・大谷吉継らは、西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任と、上方2ヶ国の加増を秀秋に約束するなどして、西軍への残留工作を行っている。決戦当日、秀秋は松尾山に8千の大軍を率いて布陣した。この時松尾山は西軍の一部将兵が入っていたが、秀秋は兵の数に物を言わせてこれらを追い出して松尾山に陣を敷いている。(この時点で東軍に加わったとも考えられる)
秀秋の心は東軍にあったとされるが、宇喜多秀家隊が福島正則隊を撃破し、また大谷吉継隊も藤堂高虎隊を敗走させるなど、意外にも西軍有利に戦況は推移しており、東軍参加を躊躇したという説と、徳川秀忠が3万8千の大軍を率いて関ヶ原に向かっていたが、一向に現れないことに不審を抱き参戦しなかったという説もある。
戦況の芳しくない徳川家康は使者を送り、攻撃命令を下すもののそれでも動こうとはしなかった。痺れを切らせた家康は秀秋の陣へ威嚇発砲し、それに驚いた秀秋はついに東軍への加担を決意し、松尾山を下り、西軍の大谷隊を攻撃した。突然の裏切りではあったが、小早川勢の裏切りを予測していた大谷隊は奮戦し、小早川勢を後退させたが、脇坂安治ら、その他西軍の諸武将が次々に裏切るに及び、大谷隊は壊滅し、大谷吉継は自害した。なお、家康の威嚇発砲が実際に行なわれたかどうかは位置関係から疑わしい。
この参戦により大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、石田三成は大坂を目指し伊吹山中へ逃亡する。
[編集] 岡山藩主
関ヶ原本戦の終了後、兵を石田三成の父・石田正継の守る佐和山城に進め、激闘の末、これを落城させる戦功を挙げている。戦後の論功行賞で宇喜多秀家領であった備前と美作に移封され、岡山藩55万石に加増された(50万石とも)。
かくして、大封を得た秀秋は荒廃していた岡山城を改築し、以前の2倍の外堀をわずか20日間で完成させた。そして検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速に近代化させていった。ところが突然、異常な行動が目立つようになり、家臣も逃げ出し、国政も顧みなくなっていった。そんな状態でも徳川家康は忠告はするものの処罰はせず、傍観していた。世間では関ヶ原における裏切りを非難・中傷する声も多く、石田三成(大谷吉継とも)の祟りと噂された。そして関ヶ原の合戦からわずか2年後の1602年に死去した。享年21。嗣子がおらず、小早川家は断絶、徳川政権初の無嗣改易である。法名:瑞雲院秀巌日詮。墓所:岡山県岡山市の瑞雲寺。
[編集] 死因
21歳という、この早すぎる死因として、様々な説がある。
- 大谷吉継の亡霊の仕業により精神に異常をきたす。
- 徳川家康が小早川家領地没収をもくろむが口実が無く、お家断絶を図り毒殺した。
- 毛利家が暗殺した。
- 暴政に怒った農民により領内巡察中に殺された(斬り殺そうとした農民の捨て身の反撃により、急所をつぶされ頓死したとされる)。
- 小姓を手討ちにしようとして逆に返り討ちにあった。
- 酒に溺れ身体を壊した。
いずれも関ケ原役から約100年後に発行された、岡山の地誌による俗説で、徳川幕藩体制による情報操作の現われと見られる。
また、同年同日同所で兄弟2人(木下俊定、木下某)も死亡したという記述が梵瞬日記にある。某を秀規とする説があるがこれは誤り(秀規は大坂の陣で大坂城に入城し、秀頼に殉じている)。一説には俊定の死は秀秋の死の三日前ともいうが、共に殺されたのかあるいは斬り合ったのか、秀秋の死となんらかの関係があるのかもしれない。
小早川氏は長く断絶していたが、明治に入って再興するよう勅命が下り、毛利本家から毛利三郎が小早川家に入ることで再興された。
[編集] 人物
優柔不断で暗愚な武将と評されることが多いが、これは関ヶ原での裏切りによる後世の印象が大きいことによる。実際には初陣である慶長の役の蔚山城の戦いでは敵に包囲された加藤清正を救出するなど大きな武功を上げ、政治能力についても備前岡山での統治で大いに発揮されている。他の兄弟を差し置いて秀吉の養子になっている事実からも決して暗愚ではないと推察される。 また、関ヶ原での裏切りについても後世の記録による印象操作があり(威嚇射撃に驚き裏切ったというのが定説であるが、地理的な面から実際に威嚇射撃があったとは考えづらい。また、そもそも秀秋は伏見城攻め後に家康に詫び状を出しており、この時点で既に東軍に与していたとの説もある)、実際の能力に対して一般の評価が著しく低い武将の一人である。
[編集] 主な家臣
[編集] 兄弟
[編集] 関連項目
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