佐久間盛郎
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佐久間盛郎(さくまもりよし、慶長9年(1604年) - 寛文5年12月12日(1666年1月17日))は、江戸時代の旗本。佐久間氏の一族。佐久間信実の次男。初め定良(さだよし)を名乗った。通称は総太郎、外記、宇右衛門。子に佐久間信就。
元和6年(1620年)、家督(上総国茨葉村の内1000石)を相続。元和7年(1621年)、御書院番に列せられた。
寛永10年(1633年)2月7日、武蔵国忍の内に200石を加増されたが、後に自ら願い出て蔵米に改められた。
寛永16年(1639年)2月15日、市谷門普請の奉行を務めた。
寛永20年(1643年)10月10日、医師慶悦とともに土井甚十郎宅を訪問した帰途において、慶悦にいきなり斬りつけられた。訳を聞くため捕らえようとしたが、従者たちが慶悦を殺してしまった。盛郎も「殺すな」とは言わなかったが、そのことも含めて幕府にはそのまま正直に届け出た。 盛郎は取調べを受けたが、従者たちの証言とも食い違いはなく、特に問題はなかったということで、慶悦が突然の狂気によって凶行に及んだものとして、盛郎にはお咎めはなかった。
同10月18日、幕府の命により林丹波守勝正とともに越前国福井に赴き、松平越前守光通の後見役を務めた。
慶安4年(1651年)6月28日、酒井摂津守忠当に預けられていた加藤肥後守忠広の母が没したとき、検使として出羽国庄内に派遣された。