冬の嵐作戦
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冬の嵐作戦(ふゆのあらしさくせん;ドイツ語:Unternehmen Wintergewitter)は、第二次世界大戦中の1942年12月に行われたドイツ軍のスターリングラード救援作戦である。
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[編集] 作戦の背景
ブラウ作戦により発生したスターリングラード攻防戦で、11月22日ブラウ作戦におけるB軍集団であったドイツ第六軍と第4装甲軍の一部と同盟国軍のルーマニア軍・ハンガリー軍(約33万人)がジューコフ将軍率いるソ連軍によって包囲された。包囲されたドイツ軍を中心とした枢軸軍は長引いたスターリングラード攻防戦による疲弊と補給不足(ソ連軍側はT-34戦車を1200両余りも投入したが、枢軸軍側は故障などにより、稼動できる戦車は100両以下だった)により反撃もできなかった。これによりブラウ作戦は完全に頓挫し、包囲された枢軸軍部隊を救出し、東部戦線の立て直しを計らねばならなかった。
[編集] 作戦開始
ヒトラーは包囲直後、B軍集団に対しスターリングラード死守を命じたが、同盟国であるルーマニア軍の最高指揮官イオン・アントネスク元帥は脱出を主張。深夜にまで及ぶ長い協議の末に救援作戦を決定、マンシュタイン元帥に指揮を委ねた。マンシュタイン元帥は12月11日、スターリングラードの救援作戦冬の嵐作戦を開始した。
[編集] 部隊編成
マンシュタイン元帥は東部戦線では最後の予備兵力であったホート将軍の装甲軍団を投入した。ホート機甲軍団は三個装甲師団から編成されていた。そのうちの一師団はドイツ本国にて新しく装備を更新しており、T-34戦車への対抗には有力とされる88ミリ砲を搭載したVI号戦車(ティーガーI)も配備されていた。だが定数は、VI号戦車の生産遅延によって満たしておらず、75ミリ長砲身搭載のIII号突撃砲などが代わりに配備されていた。
[編集] 戦闘
12月11日の発動後、ホート装甲軍団は南西部から北上していった。初期の頃の攻勢は、南西部へのソ連軍の防衛配備は手薄く進撃は順調で、スターリングラードに取り残された第6軍兵士は、最後の望みである救出部隊の戦闘音が近くなるのを喜んだ。先頭の部隊の戦車は照明弾を第6軍に向けて撃ち、第6軍の脱出は可能になるかと思われた。しかしヒトラーから死守命令を受けていた第六軍司令官フリードリヒ・パウルス大将は脱出を拒否。さらにソ連軍司令官ジューコフ将軍が第2親衛軍をドン川河畔に送り、攻勢を仕掛けてからは戦車同士の激戦となり進撃は停止。ホート装甲軍団のVI号戦車も少数のためT-34戦車には対抗できず、撃破される戦車も増え、次第に損害も多くなった。12月25日のクリスマス以後、ソ連軍はスターリングラードの包囲網を狭めていき戦況はさらに劣勢になっていく。ドイツ空軍の輸送機による補給のための飛行場も次々にソ連軍が制圧、もしくは破壊されていった。このままホート機甲軍団を失っては東部戦線における予備兵力はなくなり、東部戦線全体の崩壊を危惧したマンシュタイン元帥は12月26日、冬の嵐作戦を中止してドン川南部からホート機甲軍団を全面的に退却させ始めた。ソ連軍からの追撃を受けながら、後方へと次第に退却し、1月に退却は完了した。
[編集] 作戦の結果
ホート機甲軍団は一師団をドイツ本国にて装備更新していたが、充分とは言えなかった。前線に急いで投入されたものの、VI号戦車は定数不足で、代わりにIII号突撃砲やIV号戦車が充当されていた。そのため戦力不足によりソ連軍の南西部包囲網を突破できず、スターリングラードに包囲されたドイツ軍・ルーマニア軍・ハンガリー軍を救出することはできなかった。作戦失敗後、ソ連軍は東部戦線南部において攻勢を拡大しドイツ軍は劣勢に立たされる。スターリングラードに取り残された将兵は、飢えと極寒の中で市街地で戦い続け、多くの死傷者を出した。 名将と言われるマンシュタイン元帥でさえも、この作戦を成功させることはできなかったが、この後の第三次ハリコフ攻防戦により一時的に東部戦線を立て直した。
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