ティーガーI
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ティーガーI(初期型) | |
---|---|
性能諸元 | |
全長 | 8.45 m |
車体長 | 6.3 m |
全幅 | 3.4-3.7 m |
全高 | 2.93 m |
重量 | 56 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 38 km/h(整地) |
10-20 km/h(不整地) | |
行動距離 | 125 km |
主砲 | 88 mm KwK 36 L/56 |
副武装 | 7.92mm MG34機関銃×2 NbK39 90mm・Sマイン発射機×6 |
装甲 | 前面100mm 側面&後面80mm 上面&底面25mm |
エンジン | Maybach HL210 P45 水冷V型12気筒ガソリン 650 hp |
乗員 | 5 名 |
VI号戦車・ティーガーI (Panzerkampfwagen VI "Tiger" Ausf. E)は、第二次世界大戦においてドイツ軍によって使用された重戦車。当初は Pzkw VI Ausf. H の名称で開発されたが、後に Ausf. E と変更された(制式番号:Sd.Kfz.181)。 ティーガーI は1942年後半からドイツが降伏する1945年まで使用された。「ティーガー」の愛称はフェルディナント・ポルシェ博士による物であった。本車の車体は後にシュトルムティーガーに流用された。
目次 |
[編集] 設計
ティーガーIは以前のドイツ戦車とは主にその設計哲学において異なる。以前のドイツ戦車は機動力と装甲、砲力のバランスを重視したものであった。当時最強の砲力を持つ戦車は50mm砲装備のIII号戦車に過ぎず、敵戦車の砲力が上回ることもあったが、ドイツ軍ははるかに優れた戦術でこの不利を跳ね返した。
ティーガーIは機動力を犠牲にしてまでも砲力と装甲を強化した新しい設計アプローチを代表する戦車である。新型重戦車の設計の検討は1930年代後半に開始されたが、その時は生産計画は全くなかった。ティーガーIの誕生につながる真の刺激となったのはソ連軍のT-34戦車の登場である。ティーガーIの形状とレイアウトはIV号戦車によく似ていたが、ティーガーIは二倍以上の重さがあった。これははるかに厚い装甲と大口径の主砲を備えていることに加えて、その為必然的に大きくなる燃料タンクと弾薬格納庫、更に大きなエンジン、強固な変速機とサスペンションを備えた結果であった。
ティーガーIの車体前面装甲は100mmの厚さがあり、砲塔前面の装甲は120mmもの厚さがあった(Ⅳ号戦車の前面装甲は初期型で20mm、強化されたF型で50mmに過ぎない)。側面と後面装甲の厚さも80mmあった。上面と底部の装甲の厚さは25mmである。後に砲塔の天蓋の装甲は40mmに強化された。装甲板はほぼ平板のものを連結して作られていた。装甲の接合はリベットではなく溶接が使われた高品質のものだった。
車体は重すぎて大半の橋梁の荷重制限を超えており、その為4mの深さまで水中を走行できる様にされた。水中での換気と冷却のため特殊な機構が必要になった。水中走行の準備には30分かかり、砲塔と主砲は正面真直ぐの位置に固定しなければならなかった。後面には大きなシュノーケルの筒が取り付けられた。
戦車の後部にはエンジンルームがあり、その両側の水を満たすことが可能なスペースには燃料タンクとラジエーターとファンがあった。ガソリンエンジンは排気量21リットルのV12型エンジンのマイバッハHL210P45で、最高出力は650馬力だった。よいエンジンだったがこの巨体には充分でなかった。250輌目のティーガーIから改良型で最高出力700馬力のHL230P45に換装された。エンジンは60度V12であった。エンジンの右側に後面の板に空けられた穴を通してチェーンで駆動する非力なスターターがあった。エンジンは上面の板のハッチから吊り上げることができた。
駆動輪は前部の非常に低い位置にあった。重さ11トンの砲塔はエンジンから機械的に駆動する水圧モーターで動かされた。全周するのに約1分かかった。サスペンションは16のトーションバーからなっていた。スペースを節約するためスイングアームは一方で前向きもう一方で後ろ向きになっていた。一本のアームに三つの転輪がついており、不整地でも良好な走行性能を発揮した。転輪の直径は80cmで差込式だった。内側のホイールからよくあることだがタイヤが外れてホイールを外す必要が生じた場合、外側のホイールのいくつかも外さなければならなかった。ホイールは泥や雪が凍り付いて動かなくなることがあった。ソ連軍はこのことを知り、しばしばティーガーIがすぐに稼動できないことの多い早朝に攻撃を行った。後には内部にタイヤを付けた新しい鉄のホイールが採用された。
履帯の幅は前例のない725mmもの幅であった。車幅に制限のある鉄道輸送時には外側の転輪を外して520mm幅の輸送用の履帯をつけた。熟練した乗員の場合で履帯交換に約20分を要した。
内部構造は一般的なドイツ戦車と同様だった。前部には乗員用の区画があり、運転手と無線手がギアボックスをはさんで前に座った。彼らの後ろには砲塔の床があり、その周りを棚が取り巻いていた。これによって装填手は履帯の上に搭載されている弾薬を取り出すのが容易であった。砲塔内には二人が座った。砲手は主砲の左に座り、車長はその後ろだった。装填手のための折りたたみ式いすがあった。砲塔の床は全周式であり、また床から天井まで157cmの高さがあった。
主砲の砲尾と点火機構は有名なドイツ軍の88mm砲高射砲のものが採用された。88mmKwk36L/56砲はティーガーIのための改造版であり、ティーガーIIの88mmKwk43L/71とともに第二次世界大戦においてもっとも威力があり、恐れられた戦車砲の一つであった。ティーガーIの主砲は非常にフラットな弾道であり、極めて正確なツァイスのTZF9b照準機を装備していた。戦時中に英国で行われた試射において、1200ヤードの距離でわずか16インチ×18インチの大きさの標的に5回連続で命中させた。ティーガーIはしばしば1マイル以上の距離で敵戦車を撃破したと言われているが、第二次世界大戦において大半の戦闘ははるかに近距離でなされていた。
その他の新たな機構は水圧式のプリセレクターギアボックスとセミオートマチックトランスミッションである。この戦車の大重量はまた新たな操舵機構を必要とした。より軽量の車両に使われるクラッチとブレーキではなく、英国のメリット-ブラウン式のシングルラジアス機構の改造版が使用された。ティーガーIの操舵機構は二つのラジアスを持つタイプだった。それぞれのギアで二通りの一定半径での旋回が可能だった。一速での最小旋回半径は4メートルだった。変速機は8速だったので、16通りの旋回半径があった。もし旋回半径を小さくしたければブレーキが使われた。操舵機構は操作しやすく時代の先を行っていた。しかし、本戦車は全体としては機械的に進んでいるとは言えなかった。ティーガーIが動けなくなったティーガーIを牽引すると、エンジンはしばしばオーバーヒートし、故障や発火の原因となった。その為ティーガーIが僚車を牽引することは禁じられた。駆動輪は低い位置にあるため、余り高い障害物は乗り越えられなかった。履帯はしばしば駆動輪から外れ、その為すぐに行動不能となる悪い傾向があった。履帯が外れて絡まった場合、二台のティーガーIが牽引のため必要になった。からまった履帯はしばしば緊縮がきつくて軸を抜いて外すことができなかった。その為履帯を爆破して外さなければならないこともあった。ドイツ軍最大の重牽引車である18t半装軌式牽引車(制式番号: Sd.Kfz. 9, FAMO社)1台ではティーガーIを牽引できず、しばしば3台連結しなければならなかった。
ティーガーIは第二次世界大戦の戦車中で最も重装甲かつ強力な砲を持つ戦車の一つであり、連合軍戦車の強敵だったが、設計は保守的でいくつかの重大な不利があった。装甲板は平らで、ソ連のT-34のように傾斜されておらず、充分な防御力を与えるためには厚くて重いものとなってしまった。この過大な重量はサスペンションに負荷をかけたが、サスペンションは複雑で修理が困難だった。洗練された変速機構はまたこわれやすかった。
更に大きな問題は本戦車の生産コストが非常に高価だったことである。第二次世界大戦中4万両のアメリカのシャーマン戦車と5万8千両のソ連のT-34戦車が生産されたのに比べてティーガーIはわずか1350両、ティーガーIIは500両に過ぎない。ドイツ戦車の設計は生産時間、原材料、費用の面でいずれも高価についたが、ティーガーIはIV号戦車の二倍、III号突撃砲の4倍も高価だった。もっともティーガーIに近い敵戦車はアメリカのM26パーシングとソ連のIS-2であり、それぞれ約200両と3800両が戦争中に生産された。
[編集] 設計の歴史
ヘンシェル&ソーン社は1937年春にティーガーIの開発を始めた。いくつかの試行錯誤を経て、1941年にヘンシェル社と他の三社(ポルシェ、MAN、ダイムラーベンツ)は75mm主砲を持つ35トン型戦車の設計を提出した。ソ連のT-34の登場はこれらの設計をほとんど時代遅れのものにしてしまった。ヘンシェル社の設計技師エルウィン・アドラースによれば、「ソ連軍の戦車が国防軍のどの戦車よりも優れていると判った時は皆仰天した」。総重量を45トンに増やし、主砲の口径を88mmと大きくすることが命令された。新しい試作車の期限は1942年4月20日のヒトラーの誕生日だった。設計の時間が限られていたため、既存のより軽量の戦車の設計が基本とされた。重量が増えたため戦車の各部に過大な力が加わり、信頼性を大きく損ねた。パンター戦車と異なり、ティーガーIの設計にはT-34の革新性はどこにも採用されなかった。装甲の傾斜による避弾経始性は得られなかったが、装甲の厚さと重量はこれを補った。
ポルシェとヘンシェルが試作車の設計を提出し、ラステンブルクにおいてヒトラーの前で比較された。ヘンシェルの設計が採用され、最初の50両にはヘンシェルの初期型設計(しばしばポルシェ設計と間違われる)の砲塔が装備された。ティーガーIことVI号戦車E型の生産は1942年8月に開始された。同時に、ポルシェ設計のものが90両発注された。これらは使用されることはなかったが、車体を流用してフェルディナントまたはエレファントとして知られることになる駆逐戦車が製造された。
ティーガーIは実質的に試作のまま大急ぎで実戦に投入されたため、生産期間中にわたって大小の改良が続けられた。キューポラをより低い安全なものに交換した新型砲塔が最も目立つ変更である。コストを削減するため、潜水能力と外部取り付けの空気清浄機が省略された。
[編集] 生産
ティーガーIの生産は1942年8月に始まり、1944年8月の生産終了までに1355輌が生産された。当初月産25輌のペースは1944年4月には月産104輌まで増加していた。保有台数は1944年7月1日に671台数に達したのが最高だった。通常ティーガーIの生産には他のドイツ戦車の二倍の時間がかかった。改良型のティーガーIIが1944年1月に生産開始されると、ティーガーIはまもなく姿を消した。
[編集] 運用
ティーガーIは、主要な敵戦車であるT-34、M4中戦車、チャーチル歩兵戦車を1600m以上の遠方から撃破できた。対照的に、76.2mm砲を装備したT-34はティーガーIの前面装甲を零距離でも貫けなかったが、側面装甲はBR-350P APCR弾を使用すればおよそ500m以内であれば貫けた。T-34-85戦車の85mm砲はティーガーIの側面を1000m以上でも貫くことができた。IS-2の122mm砲はティーガーをあらゆる方向から1000m以上で撃破することができた。
M4シャーマンの75mm砲はティーガーIの正面装甲を零距離射撃でも貫けず、側面装甲も500m以内でないと貫けなかった。シャーマン・ファイアフライに使用される英国製17ポンド砲は、APDS弾を使用した場合、1500m以上で前面装甲を貫けた。米の76mm砲は、一般的なAPCBC弾を使用した場合、いかなる距離でもティーガーIの前面装甲を貫けなかったが、供給量の少なかったHVAP弾を使用すれば1000mで前面装甲を貫けた。
通常戦闘距離が短くなるとより厚い装甲を貫くことができる(第二次大戦ではほとんど使用されなかったHEAT弾を除き)。ティーガーIの砲の大きな貫通威力は、敵戦車を相手が反撃できない遠距離から撃破できることを意味する。開けた地形ではこれは大きな戦術的優位だった。敵戦車はティーガーIを撃破するためにしばしば側面からの攻撃を強いられた。
ティーガーIは1942年9月に初めてレニングラード近郊の戦闘で使用された。ヒトラーの圧力で計画より数ヶ月も早く使用されたため、初期型の多くは機械的な問題を抱えたままであることが判明した。1942年9月23日の初陣で、ティーガーIの多くは故障し、他はソ連のトーチカに据えられた対戦車砲により撃破された。一輌はほとんど無傷で捕獲され、ソ連に同戦車を研究し、対抗手段を準備する機会を与えた。
北アフリカでの最初の戦闘では、ティーガーIは開けた地形で連合国戦車を圧倒できた。しかし機械的欠陥により同時に使用できた数はごく少なかった。レニングラードでの経験をなぞるように、少なくとも一輌のティーガーIは英軍の6ポンド対戦車砲により撃破された。
ティーガーIは過大な重量により渡れる橋は限られていたし、地下室のある可能性のある建物を横切ることは危険だった。もう一つの弱点は油圧により旋回する砲塔の回転速度が遅いことだった。砲塔は手動で動かすこともできたが、ミリ単位の補正に使用された程度だったろう。
ティーガーIの最高路上速度は38km/hで、好敵手のIS-2の37km/hと似たようなものだった。共にほとんどの中戦車よりかなり低速だった。ティーガーIの初期型の最高速度は45km/hほど出たが、1943年秋にエンジンが改造された際に最高速度は38km/hに落とされた。ティーガーIはまた常に信頼性の不足に悩まされた。ティーガーIの部隊は故障により定数不足のまま戦闘に参加することが多く、部隊での路上行軍ではほとんど常に故障によって脱落する車両が出た。また航続距離も短かった。重戦車にしては驚くべきことに、ソ連のT-34を例外として大半の戦車より面積当たりの接地圧が低かった。
しかしながら、ティーガーIの装甲と火力は全ての敵にとって恐怖の的だった。防御戦では、低機動力はあまり問題にならない。パンターの方が連合軍戦車部隊にとってより大きな脅威だったが、ティーガーIは連合軍の兵士により大きな心理的影響を与え、「ティーガー恐怖症」を引き起こした。連合軍兵士はティーガーを見かけるとしばしば立ち向かうよりも逃げ出したが、シュルツェン付IV号戦車のようにティーガーに似ているだけの戦車に対しても同様のことが起こった。ノルマンディー作戦では、一輌のティーガーをやっつけるのに側面や背面装甲を狙うため4, 5輌のシャーマンが必要であった。ソ連のT-34もティーガーを恐れた。それはまるで以前ドイツのIII号戦車がソ連の重戦車を恐れたのと同じであった。連合軍側で受け入れられた戦術は一団となってティーガーに当たることであった。一輌がティーガーの注意を引き付けている間に、他が側面や背面を狙う。弾薬や燃料はスポンソンに搭載されているため、側面を貫通すれば撃破できることが多かった。しかしこれはリスクのある戦術であり、しばしば連合軍側は複数の戦車を失った。ティーガーの部隊を撃滅するには実に巧妙な戦術が必要だった。
ティーガーIは軍直轄の独立重戦車大隊に配備されることが多かった。これらの大隊は攻勢作戦においても、さらにしばしば反撃戦においても激戦地に投入された。大ドイツ師団やいくつかの武装SS師団など少数の選ばれた師団はティーガーIをある程度装備していた。
クルスクの戦いで1943年7月7日、SS第1戦車連隊第13中隊第2小隊所属のフランツ・シュタウデッガー軍曹が指揮する一両のティーガーは、テテレーヴィノ付近でソ連軍のT-34約50両との遭遇戦闘において約22両を撃破する。シュタウデッガーは弾薬を使い果たし、敵の残車両は退却した。この戦果でシュタウデッガーは7月10日に騎士十字章を受章した。
1944年8月8日、SS第102重戦車大隊第1中隊所属のヴィリー・フェイ曹長指揮するティーガーはイギリス軍のシャーマン戦車部隊15両と遭遇、14両を撃破し、同日中にもう一両を撃破した。SS第102重戦車大隊はノルマンディーの戦いで保有するティーガー全車を失ったが、227両の連合軍戦車を6週間の内に撃破した。
ミハエル・ヴィットマンはティーガーの多くのエースの中でも最も有名な戦車長であった。彼は様々な車両を乗り継ぎ戦い続け、最後にティーガーに搭乗した。ヴィットマンは一日で戦車数両を含む20両以上の敵車両を破壊し、ヴィレル・ボカージュの戦いで騎士十字章を受章したが、1944年8月8日に戦死した。
10名以上の戦車長が100両以上の敵戦車を破壊した。ヨハネス・ベルターは139両以上、オットー・カリウスは150両以上、クルト・クニスペルは168両、ミハエル・ヴィットマンは138両を撃破した。
[編集] 連合軍による捕獲
1943年4月21日、第504重戦車大隊の砲塔番号131番のテイーガーIがチュニジアのジェベルジャッファの丘での英チャーチル戦車との戦闘後に捕獲された。その戦車は修理され、チュニジアでしばらく展示された後、英本国に送られ徹底的に調査された。しかし西側連合国はこのドイツ戦車がいかなる自軍戦車より優れていることが判明したにもかかわらず殆ど対策をとらなかった。これは一つにはティーガーIは大量生産はされないだろうという正しい推測による。また米陸軍の戦術教条では、戦車対戦車の戦闘には重点をおかず、駆逐戦車に頼るようになっていたことにもよる。一方英陸軍はティーガーIの調査後、17ポンド砲を装備した巡航戦車の投入を急いだがあまり成功しなかった。
1951年9月25日、捕獲されたティーガーIは英国ボヴィントン基地のボヴィントン戦車博物館に英国軍需省によって正式に寄贈された。1990年6月、本車が完全に稼動できるように修復作業が始まった。2003年12月、ABRO(陸軍基地修理組織?)による大規模な修復作業の末、完全に稼動可能なエンジンを装備した131号車は博物館に戻された。
[編集] ソ連軍の反応
ティーガーIはより軽装甲のドイツ戦車に対して戦果を上げていたソ連の重戦車KV-1や中戦車T-34に対する対抗策として登場したとも言える。
ティーガーIが東部戦線に初登場したのは1942年12月だった。翌年1月に捕獲されたティーガーIはソ連に対抗策をとらせることとなった。ティーガーIが現れるまで、ソ連はもっぱら戦車の生産数量を重視し、質的な改良は量産を遅らせるため見送られてきた。ソ連の対抗策はいくつかの形をとった。152mm砲を装備した自走砲の早急な開発が命じられた。SU-152自走砲は25日という記録的な早さで設計を完了し実地試験に入った。そして同車を装備した一個連隊が定数不足のままクルスクに5月に送られ、クルスクの戦いで12輌のティーガーIと7輌のエレファント駆逐戦車を破壊した。(この記録には疑問が提示されている)また、新型重戦車が計画され、1944年に122mm砲装備のヨシフ・スターリン戦車(IS-2)が就役した。そしてそのIS-2の車輌を使用したISU-152とISU-122自走砲が完成した。T-34は1944年には新たに3人乗り砲塔と85mm砲を与えられた。最後に新たな牽引式対戦車砲として85mm砲と100mm砲が供給された。これらの新兵器は全て既存の車輌や砲の拡大改良型であったため、すぐに大量生産に入ることができた。
ソ連の戦車の最大の脅威はドイツ重戦車と比較してのその圧倒的な生産量であった。わずかに1350輌のティーガーIと500輌足らずのティーガーIIが生産されたに過ぎない一方、58000輌のT-34、4600輌のKV-1、3500輌のIS-2が生産され、合わせて66000輌のソ連戦車が1850輌のティーガーIとIIに対していたことになる。(訳注:この数字は他のドイツ戦車を無視しているが、米英戦車を計算に入れなくてもいずれにしてもソ連戦車が圧倒的な数的優位にあったことは確かである)
[編集] 対戦車兵器としてのティーガーI
ティーガーIはもともと攻撃用兵器として設計されたが、戦場に投入されたときには軍事情勢は劇的に変化しており、ティーガーIはいくつかの例外を除いて主に対戦車兵器として防御戦に使用された。
ティーガーIが他のドイツ戦車と比較して傑出した対戦車兵器だったかは疑問がある。個々の車両の戦果として、パンター戦車の内でもティーガーIに匹敵する連合軍戦車の撃破実績を残したものもいる。全体として東部戦線でも西部戦線でもドイツ戦車は連合軍戦車より戦果を上げた。一例として、ノルマンディーで8月には6000両の連合軍戦車が1400両のドイツ軍戦車に対峙していたが、装甲、兵装、機動性の全てにおいて劣り、ドイツ軍戦車の3倍の損失を出した。しかしこの不利は空軍の優位によっておおむね帳消しにされた。連合軍の空の優位のためドイツ軍戦車は大きな戦果を上げるために集結して行動することはできなかった。
ソ連軍と西側連合軍の戦車生産台数を考えると、ティーガーIが敵より10倍の戦果を上げたとしても充分ではない。もっともいくつかのティーガーI部隊はこれを上回る戦果を上げ、例えば大ドイツ師団のある部隊は16.67倍の戦果を上げた。また、高価なティーガーIの製造コストを考慮に入れることも必要だろう。ティーガーIはIII号突撃砲の4倍も高価であり、コストから見ればその分4倍の戦果を上げなければならない。
[編集] 外部リンク
- Tiger Tank H-E-181
- Detailed information about every aspect of the Tiger I at the Tiger I Information Center
- Information about the Pz.Kpfw.Tiger Ausf.E at Panzerworld
- AFV Database
- Account of the restoration of Tiger 131 by the Bovington Tank Museum
- The Armor Site, Tiger Battalions
- Article, "New German Heavy Tank" from U.S. Intelligence Bulletin, June 1943
- Tiger1.info: technical details
- Part-translated 'Tigerfibel' introductory crew manual
- Panzerkampfwagen VI Tiger (P), and Panzerkampfwagen VI Tiger Ausf. E at Achtung Panzer!
第二次世界大戦のドイツの装甲戦闘車両 | |||
---|---|---|---|
戦車 | |||
I号戦車 | II号戦車 | III号戦車 | IV号戦車 | パンター | VI号戦車 (ティーガーI, ティーガーII) | 35(t)戦車 | 38(t)戦車 | |||
突撃砲 | |||
III号突撃砲 | IV号突撃砲 | ブルムベア | シュトルムティーガー | |||
駆逐戦車 | |||
I号対戦車自走砲 | マルダーI , II , III | ヘッツアー | IV号駆逐戦車 | ナースホルン | ヤークトパンター | ヤークトティーガー | エレファント | |||
自走砲 | |||
I号自走重歩兵砲 | II号自走重歩兵砲 | ヴェスペ | フンメル | グリーレ | パンツァーヴェルファー | カール自走臼砲 | |||
対空戦車 | |||
38(t)対空戦車 | メーベルワーゲン | ヴィルベルヴィント | オストヴィント | クーゲルブリッツ | |||
装甲ハーフトラック | 装甲車 | ||
Sd Kfz 4 | 250 | 251 | 252 | 253 | Sd Kfz 221/22/23 | Sd kfz 231/32/34/63 | ADGZ | ||
試作戦車 | |||
NbFz | マウス | E-10 | E-25 | E-50 | E-75 | E-100 | ラーテ | |||
特殊車輌番号 |
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