前田三夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田 三夫(まえだ みつお、1949年6月6日 - )は帝京高等学校野球部監督で社会科教諭。千葉県袖ケ浦市出身。木更津中央高等学校を経て帝京大学経済学部卒業。
目次 |
[編集] 経歴
高校時代は三塁手として活躍するも甲子園の出場経験なし。大学時代は4年の秋に三塁コーチャーとしてグラウンドに立っただけで選手としては公式戦出場なし。練習を手伝っていた縁で大学卒業と同時に帝京高野球部監督に就任。1978年春の選抜高校野球で甲子園初出場を果たし、1980年春には伊東昭光投手を擁し準優勝。以後、練習場である校庭が(こちらも強豪となる)サッカー部と共用という恵まれない環境に長らくありながら(2003年12月に専用グラウンド完成)、帝京高野球部を全国優勝3度の強豪チームへと育て上げる。
[編集] 監督として
前田の指導の特徴として、右の本格派投手の育成と体作りが挙げられる。右の本格派投手の育成は、「ピッチャーとはこうあるべき」という自分の好みを持っており、伊東昭光を自分の考えていたプラン通りに段階を踏ませて結果を残して以来、チームが甲子園で好成績を挙げる時には必ずといっていいほど右の本格派の好投手が存在するように。そして体作りは、1983年春の甲子園1回戦で蔦文也率いる池田高と対戦し0-11と惨敗を喫したのがきっかけとなり、ランニング量増加、ウェートおよび水泳トレーニングの導入、そして食事(昼食には弁当に加えておにぎりも持たせる。合宿時にはどんぶり飯を残さず食べさせる)をもトレーニングの一環として組み込み、選手を高校生とは思えない分厚い体へと改造させている。
勝利のためには妥協を許さない采配・指導ぶりから、馬淵史郎(明徳義塾高監督)と共に高校野球における“ヒール”として扱われることが多い。1995年、練習試合で大敗したことがきっかけで厳しさを増した練習についていけず同年春の甲子園出場時の主将を含むレギュラー部員が3人退部。全国高校野球東東京大会では都八丈高戦で「実戦経験を積ませたい。」と外野フライでコールド勝ちになるランナーを三塁に止まらせて批判され、全国大会では激しいスライディングが批判の的となる。それでも自分を曲げなかった結果、春夏通算3度目の全国制覇を達成したが、頑固な前田も相次ぐ批判はさすがに堪えたのか、優勝監督が務めることになっている大会後の海外遠征チームの監督職は辞退している。
その一方、インタビューでは謙虚なコメントが多い。
ノックの技術はプロ並で、ホームベースから外野ポールに直撃するフライをいとも簡単に当てることができる。
最近の甲子園出場は、2006年夏に準々決勝で智弁和歌山高と対戦し、9回表に投手に代打を出すなどして4-8から8点を奪い逆転する執念を見せるも、その裏には使い物になる投手がいなくなり12-13でサヨナラ負けを喫するという壮絶な試合を展開した。この試合は全国から大きな反響を呼び、特に2ちゃんねるでは前田の采配を批判するスレッドが乱立するほどであった。その前の甲子園出場時も智弁和歌山高に敗れており(2002年夏準決勝)、返り討ちに遭う結果に終わった。翌2007年春は大型右腕の大田阿斗里投手を擁しベスト4まで進んだ。
[編集] 主な教え子
- 石橋貴明(とんねるず)
- 伊東昭光(ヤクルト、1980年春大会準優勝当時のエース)
- 小林昭則(ロッテ、1985年春大会準優勝当時のエース)
- 河田雄祐(広島ほか、1985年春大会準優勝メンバー)
- 奈良原浩(日本ハムほか、1985年春大会準優勝メンバー)
- 芝草宇宙(日本ハムほか)
- 吉岡雄二(楽天ほか、1989年夏大会優勝当時のエース)
- 三澤興一(巨人ほか、1992年春大会優勝当時のエース)
- 杉浦双亮(360°モンキーズ)
- 金剛弘樹(中日、1995年夏大会優勝当時の控え投手)
- 森本稀哲(日本ハム)
[編集] 甲子園での成績
- 春:出場13回・19勝12敗・優勝1回(1992年)・準優勝2回(1980年、1985年)
- 夏:出場9回・24勝7敗・優勝2回(1989年、1995年)
- 通算:出場22回・43勝19敗(勝利数は2007年春現在、歴代3位タイ)・優勝3回・準優勝2回